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みやこたまち
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そののちのこと(無間奈落)

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十二「男はそんな信夫の〜く強くなっていった」



 男はそんな信夫の胸の内を見透かしたかのように、軽く咳払いをした。そして、自分がなぜ、多田一郎のことを問題にしていないのかを、話し始めた。
 「彼女の発症は、自分を“みづは”という人格に重ね合わせた時から始まったのです。良いですか。それを忘れてはいけない。その多田一郎とかいう男と関係を持った時、彼女はすでに“みづは”だったのですよ。問題なのは、何が彼女に“みづは”という人格を与えたのかなのです。少なくとも、多田一郎という男はこの件に何ら関係を持ってはいない。時期的に、遅すぎるのです。彼女の発症が学校への入学前であったことが重要なのです。多田一郎は、あなたよりも早い時期に彼女に会うことができたでしょうか?」
「そんなはずはない」
 と信夫は答えるしかなかった。信夫とみづはは、特別推薦入学者として十二月に出会っているのだ。多田は一般入試の後で、大学入学が決定した。彼女と多田一郎とは故郷も違うし、親の仕事の上でも付き合いは無いはずだった。
「多田一郎君は、いなかった。よろしいですか。彼女がみづはに乗り移られた時、多田一郎よりも、むしろ、あなたが近くにいた」
「乗り移られた?」
 信夫は、当時、みづはの周りにいた女達を思い出そうとした。しかし、誰一人として思い浮かばなかった。入学後、みづはは既に、あのぎらつく白い反射光を発していたのだ。いや、あのパーティーの会場にいたときから既に、そうだったのだ。だから信夫は、みづはを視界に入れたのではなかったか。
「違う。彼女は既に“みづは”として僕の前に現れたんだ。だとしたら、それよりも前に何かがあったに違いない。彼女は家の事をあまり話そうとしなかった。でも前の学校では、いろいろな人の良き相談者として人望も厚かった。その分、恨まれるようなことも多かっただろう…… では、彼女の右目は? あなた、彼女の右目を見ましたか?」
 白衣の男は黙ってうなずいた。その態度に押されるように信夫は続けた。
「あれは、みづはとしての彼女に現れた現象なのですか。それとも彼女自身が先天的に持っていたものなのですか?」
 信夫は身を乗り出して白衣の男に問うた。白衣の男はじっと考え込んでいたが、やがて口を開いた。
「彼女の右目がどうしたというのですか? 私は彼女をくまなく診察しましたが、特別な所見はありませんでしたよ」
「そんな、馬鹿な……」
 信夫は突き出した上体を戻すことさえできず、その場に硬直した。自分を捕らえて止まなかった茶色の右目が、彼女には無かったという。信夫は白衣の男の後ろでゆっくりと息付いているモノが、みづはなのか、みづはだった誰かなのか、それとも自分とはまったく無関係な相手なのか、無関係だとしたら、なぜこれほどまでに細かな点までが符合し、それでいてなぜ、もっとも重大な特徴であるはずの右の瞳だけが食い違うのか、また、自分は何に導かれてここまで来てしまったのかが、わからなくなった。それは今まで信夫が味わったことの無い、恐怖であった。自分の存在までもが否定されかねない、いやすでに否定されていてただ自分はその否定を否定するためだけに、むなしい懇願を続けているだけなのではないかとすら思われた。
「先生。それでは、なぜ、彼女が? いや、なぜ、彼女はここにいるのですか? どういうわけで。いったい誰が。彼女をここに運び込んだのは、いえ、彼女はどこで、誰が発見して、ここにつれてきたというのですか?」
 白衣の男は、目の前で信夫が混乱の極みに達している様子を、しげしげと眺め、その質問がそれほど的外れでは無い事に、大きくため息をついた。
「名前は言わなかった。やせた男だった。彼女はひどく取り乱していた。自傷行為がひどかったので、やむを得ず拘束した。脊椎に沿った長い傷も何条か見受けられた。私はまず、連れてきた男の暴行を疑っていた。だが、調査の結果、すべての傷は彼女自身がつけたものだとわかった。彼女は自分の身体に、大きな裂け目を作りたがっていた。理由は、精神疾患の症例のどれでもが当てはまりそうだった。鎮静剤を投与し、引き続き拘束衣のまま寝かせてあるが、これは彼女自身を彼女から守るための処置だ。眠っているあいだは、無垢なものだが」
 白衣の男は感慨深げに、眠る女を見つめた。
「男はひどく思いつめていた。『遅すぎた。遅すぎた』と繰り返していた。彼は彼自身を責めていた。私は彼にも鎮静剤を投与して、それから話を聞いた」
 ふと、男は言葉を切り、信夫がつんのめりそうな格好で膝を落としているのを見て、笑みを浮かべた。だが再び話し始めると、その口調はそれまでと全く変わらないままだった。
「私は、誰の言葉であろうと額面通りには受け取らない。言葉には、それを発した者の思惑や、価値判断が必ず入り込んでいる。だから私は決して人の言葉をそのままでは受け取らない。だから、その男の話も、私はそういう姿勢で聞いた。男は、彼女をある男の元から救い出してきたのだと、言った。そうしなければ、彼女がどうにかなってしまって、取り返しがつかなくなるからだと、言った。そしてまた遅すぎたと言った。なかなかその男の懐に飛び込む機会が無かったのだそうだ」
 信夫は静かに嗚咽していた。白衣の男はまた満面に笑みを浮かべた。ポケットに両手を突っ込み、こみ上げてくる笑いを押し戻すように、何度も深呼吸をした。話し始めると、声は、先ほどまでと全く変わってはいなかった。
「その男は、彼女をとりこにしていた男のことをよく知っていた。その、男というのはね……」
 男の頬が引き締まった。先ほどまでの気安い深呼吸とは異う。深い息をつき、白衣の男は肩をピクリとせり上げて、言った。
「穂積信夫という男なのだ。つまり、君のことだ」
 空間を揺るがすほど大きな声だった。信夫はビクリと身体を震わせ、それから床に崩れ落ちた。腹部が激しく上下した。ひどい吐き気が信夫を襲っていた。胸が張り裂けんばかりに痛んだ。胸を押え、信夫は床上で痙攣した。目の前が灰色の粒子に覆われた。それは精度の悪いスクリーンのように、さまざまな光景を映し出していた。信夫は胃液を吐き、それがなくなると空気を吐いた。胸の痛みは際限なく強くなっていった。