そののちのこと(無間奈落)
十一「雨の音がした。そ〜えに傾きかけていた」
雨の音がした。それは遠くから聞こえた。暖かくも、寒くも無かった。上も下も、右も左も、白一色だった。しかし暗かった。信夫は自分がなぜここにいるのか分からなかった。「二本の足が、体重を支えている」と信夫は思った。「僕は靴を履いている」「僕は洋服を着ている。コートを持っている」信夫は確認できる状況を片端から言葉にしていった。「遠くで雨の音が聞こえる」「周りは白いペンキで塗られている」「僕は財布を持っているはずだ」「僕の靴には泥がついていない」「尻ポケットの右側には財布が入っている」「僕の顔には髭が無い」「髪は短く整えられいる」「ネクタイは緩んで曲がっている」「僕は声を出している」「でも、あたりには響いていない」「ここがどこなのか、僕は知らない」「なぜ、ここにいるのか分からない」「暗い廊下」「沢山の扉が並んでいる」「でも僕の住んでいる所ではないと思う」「木製の扉」「病院みたい」「僕は病院には住んでいなかったと思う」「病院へ行くのは、どこかの具合が悪いときだ」信夫は手をぐるぐると回し、身体を左右にゆする。その場で跳躍したり、首を回したりする。「どこも痛くない」「気持ちも悪くない」「ただ、疲れている」「ただ、」その語感が信夫の脳に電気のようなものを走らせた。目の前のドアが軋んで開いた。吸い込まれるように、信夫は中に入った。
真中にベッドが置いてあった。そこから白い腕が伸びていた。その腕をとって脈を取っている白衣の男がいた。白衣の男はそっと腕を布団の中に仕舞うとしばらくごそごそと何かしていたが、やがて立ち上がるとゆっくりと信夫の方を見た。
「時間がかかります。もう戻らないかもしれない。あなたは関係者の方ですね」
信夫には何の話なのかわからなかった。窓の無い白い部屋。ベッドには名札が下がっている。そしてその名前を目にした途端、信夫は弾かれるように首を振っていた。
「いえ。通りがかったら戸が開いていたので入ってきてしまっただけです。どうやら部屋が違ったようです。失礼します」
慌てて辞去しようとする信夫を、白衣の男は呼び止めた。
「待ちなさい。この病院の患者は彼女だけだ。それにこの娘さんの顔も見ないうちから、間違いだ、というのは少し性急すぎやせんかね。知っている人の顔ならば、彼女にとっては特効薬になるやもしれん」
信夫は落ち着かなかった。口髭を持つ、痩せた男を見るといつもそうなるのだと、信夫は思っていた。
「本当に知り合いじゃありません。その名札の名前の女性を、僕は知りません」
白衣の男は「ああ」と頷いた。
「この娘さんは、奇妙な症状を持っていてね。この名前じゃない別の名前を自分の名前だと思い込んでしまっているんだ。そっちの名前でしばらく生活していたそうだから、何、顔さえ見れば一目瞭然だろう。名前なんてどうとでもなるからね。まあ、みづは、と名乗っていたそうだが」
長い時間が、一瞬に凝結して背中に貼り付いてきたようだった。白衣の男は立ちすくむ信夫を尻目に、患者の布団をはいで、ベッドを起こそうとしていた。信夫はかすれ声で
「結構です。みづはならよく知っています。どうか寝かしておいて上げてください」
と懇願した。白衣の男は怪訝そうな顔をした。信夫は何かしゃべらなくてはならない、と感じた。
「いえ。あまり具合が良くないのなら、無理に起こさなくてもいいと思ったんです。それに、僕はみづは、いえ彼女がなぜこんな風になってしまったのか、原因に心当たりがあるんです。それを聞いていただこうと思って、今日はおうかがいしたわけで」
夫は自信を秘めた囁き声で、白衣の男が身を乗り出してくるのを待った。だが、男はちょっと考えてから、ゆっくりと首を振ったのだ。
「それは、おそらく彼女の発症とは無関係だと思いますよ」
そのそっけない返答に信夫は苛立ち、「聞いてみなくてはわからないでしょう」と詰め寄った。しかし、白衣の男は微笑んで首を振るだけだった。信夫は意地になった。
「いいですか。僕は彼女とは特に親しくしていた。お互いに自分の思っていることや何かを何もかも話すことが出来た間柄だったんです。僕だけが彼女を理解できると思っていたし、彼女も僕を信頼していてくれた。この、一番の関係者の話を聞きもしないで、的確な治療プランがたてられるはずが無いでしょう。僕は彼女をこんな風にしてしまった犯人を知っているんですよ」
信夫は最期には激昂しながら怒鳴っていた。それでも男は微笑みを崩さず、信夫をまぶしげに見つめ続けていた。その静かな眼差しは、信夫の姿をくっきりと映していて、それが信夫の精神にも投影され始めた。信夫は男から見た自分の取り乱した様子を客観的に見せ付けられた。恥ずかしさと焦りとを、怒りへ収斂させるために、信男は男から目を逸らさなかった。俯いてしまったら、曖昧な薄笑いを浮かべてしまいそうな自分への腹立ちを、多田一郎の上に転嫁するのだと、信男は思った。
「多田、多田一郎という男だった。あいつが彼女を、みづはを連れ出したんだ。僕は全てをかけて彼女に安らぎを与えようとしていたのに、あいつが横槍を入れたんだ。もう少しだった。もう少しだったというのに、あいつが全てを台無しにした。先生。あいつが何をしたのかを詰問すれば、みづはの治療プランがたてられる。そのはずなんだ。多田一郎という男だった。あいつは僕を憎んでいた。だから僕の全てだったみづはを陥れたんだ。今だって、どこかで僕の姿を見て、笑っているんだ。あいつはそういう奴だ。いつでも俯いて、薄笑いを浮かべて、何一つしようとしない。人のすることを台無しにすることだけがあいつの楽しみだった。それに、あいつはもう何人も人を殺している。そんな奴が徹底的にみづはを調教した。だから彼女はこうなったんだ。彼女が必死で乗り越えようとしていた壁を、あいつは一撃でぶち壊して、その破片の下敷きにしてしまった。僕は多田に会ってあいつを殺してやりたい。復讐してやろうと思ってその手がかりを探しに来たんだ。みづはがここにいる。そして僕がここに来た。ということは多田もここにいるんだろう。あんたはすました顔をしているが、何も分かっちゃいなかったんだ。僕とみづはと多田の問題に、部外者が立ち入る隙は無いんだ」
白衣の男はそれでも、静かに信夫を見ていた。口元の笑みは消えなかった。信夫は多田に対する怒りが復讐という名の殺意であることに気づいた。だが今は、その殺意を、この白衣の男にこそ向けるべきなのではないかとの考えに傾きかけていた。
作品名:そののちのこと(無間奈落) 作家名:みやこたまち