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みやこたまち
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そののちのこと(無間奈落)

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十「雨が降っていた。〜ているのだと思った」



 雨が降っていた。車窓に叩きつける雨は、曇ったガラスの向こう側にあらたな皮膜を作り、あらゆるものを歪めていた。信夫の乗る列車は薄暗い林と田畑とその間にあるトンネルとをすり抜けながら進んでいた。いまどき、こんな古臭い車両が現役で走っている路線があるということが、信じられなかった。
 車内にはオレンジ色の光が蝋燭のようにユラユラと点っていた。異様に盛り上がったシートに尻を押し付けるようにして座りながら、信夫は「やはり多田だった」と繰り返していた。電話口の多田の言葉を思い浮かべ、誘いに乗らなかった自分を呪いながら、自分自身に対する怒りを多田一郎の上に転嫁する。そうすることでさらに、多田一郎を恨む気持ちを募らせるのだった。
 あの電話は、やはりみづはに関するものだったのだ。
 多田一郎が論文を書くためにこもっていた洋館の在り処を突き止めた信夫は、その周辺で多田が一人ではなく、女性を連れていたという証言を得た。宿の女将などというのは作り話で、自分の世話をみづはにやらせているのに違いなかった。信夫は再び自分の不注意を責め、そのことごとくを多田一郎に帰した。
 列車がトンネルに入った。トンネルに入っているのだということを忘れてしまうくらい、長いトンネルだった。暗い道内には明かりがなく、湿ったコンクリートの質感が、ガラス越しに感じれた。窓に映る自分の顔が、ぬらりとしたコンクリートの質感を持っているように見えた。血の気の無い灰色の顔が、無限に反復された。窓の外には半透明の車内が繰り返されていて、その向こうにもやはりトンネルがあり車内があった。その全てに信夫がいた。虚像は遠くなるに従って透明になり、柔和になっていくようだった。信夫の心にある怒りが、なだめすかされて骨抜きにされていくように見えた。
 不意に、車内の温度が耐えがたいほど上昇した。信夫は着ていたコートとジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めた。背中に汗が流れた。トンネルはまだ終わらない。肉体的な不快感が信夫の中にある怒りを増殖させた。穏やかな虚像たちを隅々までにらむと、無数の顔が信夫をにらみ返してきた。「それでいいんだ」信夫は満足げにうなずいて、目的地に着くのを待ち構えた。
 背後から、無数の虚像を従えた一人の男が歩いてきた。コツコツという足音がゆったりと聞こえた。信夫はゆっくりと通路を見た。自分以外の人間がこの列車に乗っているとは思っていなかったからだ。近づいてきたのは、口ひげを蓄えたやせぎすの男だった。信夫は暑さと寒気とを半々に感じながら、汗をたらした。男は信夫の前をゆっくりと通り過ぎると、わざと大仰に振り向いて帽子を取った。
「やあ、まさか見忘れたわけではあるまいね」
「多田、一郎か、貴様……」
 信夫の中に、学生時代の多田一浪の風貌が形作られていった。神経質そうな顎と頬。切れ長の鋭い目。細く尖った鼻…
 無言でにらんでいる信夫を見て、男は含み笑いをした。
「なかなか、一筋縄ではいきませんなぁ。穂積信夫君。この場はいったん失礼いたしましょう。後ほど、また」
 そう言って男は背を向けて歩き始めた。信夫はとっさにつかみかかろうとした。しかし、男は信じられないような体さばきで身をかわし、つんのめっている信夫を見下ろして大きな声で言った。
「信夫君。周りを見たまえ。君のように品の無い輩がどこにいるというのだ」
 反射的に信夫はあたりをみまわした。周囲にあるのはガラスばかりだったが、そこに映った虚像は全て、何事も無かったかのようにシートへ腰をおろし、這いつくばっている信夫を批判的に見下ろしていた。
「こんな、馬鹿な」
 顔を上げると男の姿はもう無かった。信夫は得体の知れない恐怖と、いいようの無い屈辱感とに、体を引き裂かれるようだった。ようやくシートに這い上がり、恐る恐る窓を見ると、やはりオドオドして背中を丸めた自分が無数にいた。だが、遠くにいるものほど自分を蔑んでいるかのように見えた。信夫は恐怖心を抑え、屈辱を怒りに転換させることに集中していった。
「多田一郎、偉そうにしているが、あいつは母親を殺し、女中の娘を殺した鬼だ。しかも、みづはまでも監禁して、みづはの精神をずたずたにした張本人だ。僻みっぽくて、狡猾なやつ。恥知らずな男だ」
「多田一郎。偉そうにしているが、あいつは母親を殺し、女中の娘を殺した鬼だ」
「多田一郎。偉そうにしているが、あいつは母親を殺し、女中の娘を殺し」
「多田一郎」
「多田」
「殺した張本人じゃないか」
「母親を殺し、女中の娘を殺し」
「精神をずたずたにした。ひがみっぽい」
「みづはを殺した張本人じゃないか。恥知らず」
「監禁して、偉そうにしていた男だ」
 信夫の唱える言葉を、虚像達も反復していた。そのため、言葉はこだまとなって車内に響いた。自分の声さえも聞き取れないほどだった。信夫は再び恐怖にかられて口を噤んだ。しかし、こだまは止まなかった。
「殺したんだ。母親も娘も」
「偉そうにしているが、殺したんだ」
「狡猾で恥知らずな男だ。殺したんだ」
「監禁してずたずたにした。恥知らず」
「娘の精神をずたずたにして偉そうにしている恥知らずな男」
「あいつは娘を監禁し精神をずたずたにして偉そうにしてる狡猾な鬼」
「あいつは娘を監禁し精神をずたずたにして偉そうにしてる狡猾な鬼」
「あいつは娘を監禁し精神をずたずたにして偉そうにしてる狡猾な鬼」
「あいつは娘を監禁し精神をずたずたにして偉そうにしてる狡猾な鬼」
「あいつは娘を監禁し精神をずたずたにして偉そうにしてる狡猾な鬼」
 虚像達の声は、いつしかこだまではなくなった。信夫は、頭を膝の間にはさんで、身体を硬くした。しかし、声は容赦なく信夫の脳を削っていった。信夫は絶叫した。喉が破れた。それでも叫びつづけた。体をゆすり、手足を振りまわした。涙がとめどなく流れた。自分の声も虚像達の声も、もう関係がないと思った。ただ、叫びつづけるだけだった。そして声が出なくなった時、自分はきっと狂うだろう。そう思った。叫び続ける自分の喉が、どこか、笑うような痙攣を起こしているのを、信夫は感じていた。笑ったら、もう戻ってこられないだろう。信夫はむずがゆいような笑いへの衝動と、いっこうに減じない恐怖とのせめぎあいで、消耗していった。そして、いよいよ、最期の一息、と思った瞬間、爆発のように光が辺りを包んだ。トンネルを抜けたのだった。信夫は虚空を見上げ、何かをつかむような格好のまま、静止していた。白い光は圧倒的な量で、車両や、その外の風景を包み込んでいた。身体の中までも、白い光に満たされていると思った。外も中も、同じ白い光にみちているのだと思った。