そののちのこと(無間奈落)
九「多田一郎は山奥の〜捕らわれるのだった」
多田一郎は山奥の旅館の一室で、女将の着物の裾を弄んでいた。文机には一束の書類があった。女将は一郎の傍らに突っ伏して微動だにしない。一郎は口元に心地よい虚脱を浮かべて、書類に目を走らせていた。
「一週間でこれだけ進めば大したものだ。首尾が良すぎるといってもいい」
一郎は「酒だ!」と怒鳴った。しかし、誰一人応える声はなかった。一郎は舌打をして自ら階段を下り、酒の用意をした。女将は部屋に横たわったままだ。
多田一郎の中に巣食っているある種の衝動が、いつごろからその力を発揮しだしたのかを本人は知らない。父親が借金まみれになって他界したのは随分昔のことのように思われる。それまではあまり目立たない青年だった。気が弱そうなくせに神経質そうな顔立ちをしていつも俯いていた。級友達はごく自然に、自分達よりも格下の人間として一郎を見ていた。ただ、勉強だけは出来た。宿題の出た次の日の朝、一郎のノウトは教室中を巡回した。そして始業のチャイムの鳴り終わること、ぼろぼろになって一郎の方へ投げ返されるのであった。一郎は防水性のインクでノウトを書いていた。以前は普通の鉛筆書きだったが、大勢の人の手で擦られ、かすれ、判読不能になってしまうことが多かったからだ。数学にしても物理にしても、一郎のインク書きノウトは乱れの無い文字で埋められ、書き直しの跡は見られなかった。「下書き用のノウトできっちり文字数まで計算してから、インク書きしているんだよ」という風評は、一郎の神経質そうな表情とあいまって、事実と信じられていた。実際には、一郎はいつも直接ノウトにインクをいれた。間違える要素は何一つなかったからである。
父の死後、事業の分権についての醜い諍いが起こった。幾人かは一郎の身柄を引き取ろうと申し出たが、顧問弁護士の奮闘のすえ、身柄の自由といくらかの財産を勝ち取ることが出来た。それは暇を出した女中の娘一人を引き続き雇うだけのゆとりがある分与内容だった。娘は一郎よりも少し若く、境遇の違いをはっきりと飲み込んだよく気の付く働き者だった。
ある夜、弁護士は一郎の進路について実のある進言を試みた。一郎はほかに選択の余地も無いからと、それを受け入れた。今のまま世にでたところで、まともな職にありつけるとも思えず、かといってどこかの親戚の世話になるのは反吐が出る思いだったからだ。弁護人が帰ったあと、母親にその報告をするために部屋に行き、憔悴する母の顔を覗き込んだ時、それらしい最初の衝動が起こった。それが何だったのか一郎にははっきりとはわからなかった。気づいたとき、一郎はもとの部屋に一人で座っているところだった。何とも言えない虚脱感と爽快感とが入り混じった心持だった。その余韻の中で放心していると、娘が駆け込んできた。
「奥様が、奥様がっ……」
医師の診断は心臓発作だった。母は驚愕したような顔のまま静かに硬直していった。一郎は母の遺骸を時折指でつつきながら、笑いをこらえていた。
家を売り払って、さらに手持ちの金を増やした一郎は、弁護人と最後の会見をした。ざっと計算するとあと四、五年は何もしなくても生活は出来そうだった。だがその後には何かしら仕事をして食っていかねばならないだろう。弁護士は後見人として一郎を助けていきたいと懇願した。だが一郎は一言でそれを断り、席を立った。弁護士が玄関を出て行く姿をちらりと見た一郎は、彼を送り出している娘を見つけた。一郎は娘に暇を出すのを忘れていた迂闊さに苛立ち、娘に声をかけようとした。しかし、ふと振り向いた娘の目に驚愕の色が浮かんだのを見た時、一郎がこの家で最後の楽しみに取っておいた物が何だったのかを思い出したのだった。
手の中には細く冷たい感触が残っていた。痺れるような感覚が背筋から腰骨を振るわせた。洗面所に立ち、石鹸で丹念に手を洗っていると、鏡に写る自分の顔がいつもと違って見えた。光のせいだろうと気に止めないようにしていたが、ついしげしげと鏡を見てしまい、どこが違うのかを探し出そうと真剣になっている自分に気づく。「目だろうか。それとも口だろうか?」頬はいつのまにかげっそりと削げている。目は吊りあがり、口もとが耳に向かって大きく裂けているように見える。目は血走り、顔色は極端に青白くみえる。ゴオゴオと排水孔が鳴った。どれくらいの時間、鏡を見ていたのか分からなかったが、その間もずっと一郎は手を擦りつづけていた。手がヒリヒリと痛んだ。一郎は蛇口を閉め、顔の前に手のひらを翳した。薄赤く血の透けた手を見ると、そこに先ほどまで凝視していた奇妙な自分の顔が浮かび上がった。「この家にはもう誰もいない」と一郎は思った。かすかに震えている白い手のひらの中で、変化した一郎の顔が笑った。
「そうか。俺は鬼になるのか」
一郎はそう一人ごちて、洗面所を出た。
山の夜は大気までもが凍りついた。窓の外をちらちらと白い物が舞い始めていた。酒をビンからコップに注いで飲んでいた一郎は舌打をした。雪はまだ降らないと思っていたのである。膝に乗せた女将の頭に一瞥をくれて、一郎は「少し、早いようだぞ」と軽く頬を叩いた。
卓上の書類は締め切り間近になっていた。このまま雪が積もれば数ヶ月間この宿に足止めを食うことになるだろう。女の頭がごろりとして重たかった。だが膝の上に何か乗せていると不思議と心が落ち着くような気がした。たとえ暖かな物でなくても、目をかけた者の持ち物ならばその感は一層増幅された。くつろいだ気分で一郎はこの宿での最後の夜を堪能していた。
穂積信夫の父親は家に戻らなくなって程なく倒れた。いつ何の目的で購入したのか分からない遠い漁村の別荘で息を引き取ったのだ。その知らせを受けた母は、編みかけの長大なものを絡みつかせたままの編み棒で喉を突いた。信夫は一度に二つの葬式を出し、白々しい気持ちになった。事業は順調に伸びていたので、信夫は一定の権利を所有することになった。親戚たちは一人では不便だろうからと、しきりと信夫を誘った。
父はいくつかの別荘を持っていた。信夫は一人で暮らすには大げさすぎるこの家を離れて、川上の別荘に住むことに決めた。そこは父が個人的な療養の目的で建てさせたもので、離れや大げさな貴賓室を省いてあったが、間取はこの家に似ていた。幼い頃信夫は一度だけその別荘に連れて行かれた事があった。広大な敷地に立つ和洋折衷の奇妙な建物は、以後ずっと信夫の憧憬の対象となっていたのである。あそこに行けば肉の匂いのする人間たちの相手をしなくても済むだろうと、信夫は一連の権利書を作成させた。それによって信夫は純粋に金銭的な権利のみを静かに享受できるようになった。元の土地と屋敷とは売り払い、その金で別荘の庭を整えたり、家屋の修繕をしたりする費用を賄った。そんなごたごたの中で、信夫は学校やみづはの事を忘れていった。
恐ろしいほどの夕焼けが室内を暗くしていたが大気は熱を孕んでいた。電話のベルが信夫を現実に引き戻した。その時、みづはの事を思い出したのだ。そして、電話の主は多田一郎だった。なぜ、この番号を知っているのかと信夫は詰問したかったが、そこに弱みが生まれるような気がして、あえて平然と応対をした。
作品名:そののちのこと(無間奈落) 作家名:みやこたまち