そののちのこと(無間奈落)
八「みづはの方法は、〜親も帰宅しなかった」
みづはの方法は、破滅的なものだったが、彼女の十数年間の経験はただひたすらに消耗し続けるだけの物ではなかった。みづはにとって選択の余地はなかった。その先が袋小路であろうと彼女はその道を取るしかなく、別の道を選びなおすには、既にあまりにも進みすぎていた。その姿は悲壮だった。周囲へ振りまく笑顔が無邪気なだけに、それを知る信夫は胸を深く撃たれた。
進学を機にみづはは実家を出て一人で部屋を借りて住んでいた。林に囲まれた瀟洒な洋風のアパートで、学生はみづは一人きりだった。駅から離れていてバス亭も遠い不便なところだったので、家賃は破格に安かった。みづはは授業のある日はここから川沿いの土手に昇って、二時間かけて学校へ通った。
それは入学した年の秋だった。信夫とみづはとを決定的に結び付ける契機となったある変化が起こった。ゼミを終え、放課後の過ごし方についてしゃべりあっている集団の中にみづははいた。信夫は同じゼミを取っており、その集団から少し離れて煙草をくわえて、すっかり習慣となった自然さで、みづはを眺めていた。
集団は暗い影となって中央のみづはを覆っていた。普段ならば彼女の光がその暗黒を打ち消して、みづはの体に触れる事はない。だが、その日は様子が違っていた。みづはは周囲に飲み込まれ、闇に体を溶かしはじめていたのだった。信夫は煙草を投げ捨てると、闇に向かって突進した。あくまでも顔は平静を装っていたが、その一挙手一投足は焦りと緊張とに満ちていた。化粧品の匂いの塊の中、「ごめん、ちょっと急用なんだ。すまないね」などと繰り返しながら、信夫は闇の中を突き抜けた。腕の中でみづはがぐったりと頭を垂れていた。さらに背後から闇の触手が迫りつつあった。信夫はそのまま速度を緩めずにキャンパスの陸橋を渡った。
校舎裏に打ち捨てられた庭があった。普段は使われていない用具置場の落とし扉を空けると、黴臭い通路が隠れている。そこを抜けると校舎とコンクリート塀のわずかな隙間に出られる。その長い隙間を、腐った板や錆びたトタン、原型を止めない様々な廃物を踏んで歩いていくと、建物のエレベーターシャフトの凹凸のために利用できなかった空間に出られる。前面は金網に遮られた松林でその向こうには沼が広がっている。信夫は足元のおぼつかないみづはを庇いながらこの道筋を辿り、信夫自身が運び込んだベンチへ彼女を横たえた。足元を蔽う苔と落ちた松葉がしっとりと濡れ、沼は風が吹くと、幾千もの光の粒を反射した。
信夫は激しく後悔していた。みづはの崩壊は、くい止めなければ全てが無に帰するほど重大なものだったのだ。信夫の瞳に、使命とでもいうような光きが宿っていた。なぜ自分が守るのか。なぜみづはでなければならなかったのか。いくつもの疑問は既に宿命とも呼べるほど高まっていた信夫の精神の中で死に絶えていった。信夫はみづはの頭を膝にそっと乗せて髪を撫でながら、片時もとどまることのない沼からの反映を目に焼き付けていた。みづはの体がピクリと動いた。そしてその光の粒を避けるように僅かに体を捩じった。信夫はみづはの頭をそっと抱いて、自分の影の下にみづはを匿った。みづはがひたすら外界を反射させることで時間を乗り切ってきたのならば、内面にあるのは原風景を貫く亀裂だけだ。他人ばかりが住む世界で、そうした内面を保持して生きなければならないという事がどれほど困難であったかは、信夫には分かる気がした。世間が悪いのだ、という苛立ちは、しかし何も解決しない。それは正論ではあったが無力だった。信夫に出来る事は限られている。全てをなげうったとしても十分では無いかもしれないのだ。それでも信夫はそうしたかった。それでみづはが生きられ、生きるみづはを通じて信夫自信も生きた証を得られるのだと信じた。だから信夫は、みづはと関わりつづけなくてはならないと思った。みづはの原風景を変革させる事なく、みづはをみづはとして保存していく。信夫はみづはの内面にひかれたのだ。生き難い、大きな亀裂を抱えたみづは自身を。
書斎を過ぎて階段を上がると小さな屋根裏がある。そこは昔納戸として使っていた通気の悪い部屋だったが、信夫はここを自分の勉強部屋に決めていた。扉に重たい鎖と大きな南京錠をつけ、両親はもちろん、みづはにすらここへは立ち入らせなかった。年代もののコウリや箪笥の並んだ中に電球が一つ吊るされ、丸いちゃぶ台を配置したこの空間は、信夫が最も緊張を強いられる空間でもあった。ぎっしりと詰まった書籍類が信夫をぐるりと取り囲み、書き損じの紙片や、断章を書き連ねたノウトが乱雑に積み重ねられている。ここには信夫の過去の一切があり、現在の全てがあり、よって未来の可能性の全てもここにあった。夜中にふと気配を感じてふりむくと、生白い原稿の束が、棚の上から今にも雪崩落ちそうになっていて、書けと強要されているような、また侮蔑されているような気分にさせられたりもした。人間に対する時よりも、活字や文字などから感じる圧力が、信夫を内省的にし、自らの精神深くに潜る力となった。
段通に胡座して信夫は心中にわだかまるものの正体を見極めようと集中していた。電球はかすかに振幅していて、部屋中のものを引っかき回していた。信夫は目眩に陶酔していき、五感は精神に重なっていった。
あの場所は二人にとっての大切な場所になった。みづはは信夫に話をすることに慣れていった。自分自身について話すことで、手を触れることの出来なかった内面を部分的ながら把握していくことが出来た。彼女はおそるおそる自分の風景の中を歩みはじめていた。みづはが言葉に詰まったり、感情的に成り過ぎたりした時、信夫はみづはをそっと抱いて髪を撫でた。ゆっくりと繰り返し、繰り返し、みづはが落ちつきを取り戻すまで、じっと待った。信夫には、みづはが無意識のうちに抑圧していた事を言葉にする手助けが出来た。信夫自身、自分にそんな事が出来るとは知らなかった。ただ、本人が言葉にしようとし、発話することでしか、彼女は解放されないのだという事だけを信じていたに過ぎなかった。いかに長い時間を共有しようと、互いに深く語り合おうと、直接魂に触れて癒すなどということは不可能なのだ。信夫は自分がみづはにとっての触媒であればいいと思っていた。そしてその時、信夫はみづはにとって不在であり、同時に信夫自身にとっても不在でなくてはならなかった。肩につかない程度の長さで切りそろえられた髪が陽を受けて輝く。仄かに薫る髪と上気した頬、大きな瞳が信夫に全てを委ねて寄り掛かるさまを、信夫はいとおしく思った。みづは自身が語った内面世界には具象的な風景は何もなかった。あるのは不均一な密度を持った白い粒子の世界だった。しばしば信夫はその風景に巻き込まれ、あらゆるものが靄の中に溶けてかすんでいくような感覚を味わった。そんな時信夫はいつもみづはを強く抱きしめた。みづはは語り続けている。信夫は遠くで聞こえる声にすがるように、さらにみづはを抱きしめた。
作品名:そののちのこと(無間奈落) 作家名:みやこたまち