そののちのこと(無間奈落)
みづはの明るさは単に回りの人間の発する光を増幅反射しているに過ぎないのだと、信夫は考えはじめた。宿泊者のいない部屋に忍び込んで畳に寝かしたみづはを月明かりの下で見ながら、信夫は彼女にひどく興味をひかれている事を認めないわけにはいかなかった。倒れる拍子に掴んだ手をみづはは離そうとせず、信夫は片手で煙草を探って火を付けた。「それほどまでに周囲の状況に反応する事に適応したのは、おそらく自分自身の内面から目を逸らすための自衛手段に違いない。一つは周囲の人間から自分をカモフラージュするためだが、もう一つは自分自信の中に自分の目が届かないようにする為でもある。二重の意味で自分の内面から目を逸らす為に、彼女は対象を求めていた。相手を反射する事で自らの立場を安全にしておきたかった。彼女は重圧に耐えきれずひび割れ、砕けている。そのことで彼女は相手を乱反射させるようになり、光も強烈になっただけでなく、その乱反射の関数が彼女のオリジナリティーとなりつつあった。第二の内面。だがそれは崩壊し続ける彼女の砦が刹那にみせた危うい均衡の結果でしかなかった。崩れつつある砦は不安定で、彼女は常に違う自分、違う自分が乱反射させる違う相手に付いていかなくてはならなくなった。それまでと全く変わらない自分として。そのようしか人と接する事のできないのは、しかし何故だろう。一体、何が隠蔽されているというのだろう。彼女の右目の瞳。あの色は内面を照らす光の洩れ出た物かもしれない。彼女の中の内省の光が彼女自身を苦しめているのだ。普段はより明るい光に紛れているもう一つの光が、孤独の時に彼女の内面を容赦なく照らしている。目を閉じることも出来ないで、彼女は目眩の中で自分の何かを断罪している。悔やんでいる。恐れている。彼女の過去に原因があったのだろう。一体、何があったというのだろう」
彼女の手が信夫の手を強く握った。目覚めたわけではなかった。しかし信夫の思考はこだまとなって、みづはの意識に浸透していったのに違いなかった。信夫の意識に触発されて、眠るみづはの意識の中で何事かが起こっているのかもしれない。信夫は「夢に立ち入ってしまったのかもしれない」と思った。
この日以来、信夫はみづはを見守るようになった。学校でのみづはは、必死になって周囲の状況を反射しつづけていた。周囲の人間はみづはといることで楽しみを倍加し、悲しみを半分にした。みづはを見ながら、信夫は軽々しくみづはに関わってくる全ての人間を憎んだ。さんざんみづはを利用して、通りすぎていくだけの全ての人間に憤った。そしてみづはがこの先いつまでこんな事を続けるつもりなのか、また続けられるものなのかを見届けたいと思った。そして彼女の精神が限界をこえ、砦が粉々に打ち砕かれた時、自分は彼女のために出来る限りの事をしようと心に決めた。この決意は、当時つけていた信夫の日記に感傷的な言葉で綴られている。
信夫はコーヒーを飲みおえた。部屋はすっかり青く染まった。いつのまにかテラス戸は閉まっていた。母親はまだ手を止めない。答えにくい質問は、黙ってやり過ごすことが母親に対する時の心得だった。母親の質問は唐突であるかわりに、回答への執着も突然になりを潜めてしまう。自分がそんな質問をしたということすら忘れてしまうかのようだった。
「部屋に行くよ。論文を進めないといけないから」
信夫は静かに立ち上がった。母親は手を休めず、顔も上げないままただうなずいただけだった。その様子をみて信夫は、「今日の夕食は出ないだろう」と思った。戸口まで来たところで、信夫は母親に呼び止められた。ふりむくと、母親は真剣な顔で信夫を見ていた。編み棒にからみついた毛糸は膝の上に乱暴に投げ出されている。信夫は半分身体を廊下に出したままで、母親を見ていた。すると母親はなぜ、信夫がそんなかっこうで立ち止まっているのかと怪訝そうな顔をしてみせたが、すぐにテラス扉にうつった信夫の像の方へ目をうつして言った。
「私には編み物、父さんにはこの庭。だからどんな事があっても大丈夫なの。だから、あなたやあの子にも、何かあればいいんだと思うの。そうすればきっと大丈夫だわ」
椅子を揺らしながらゆっくりと話す母親の言葉に、信夫は背中で頷いて、暗い廊下へでると、後ろ手でそっと扉をしめた。
作品名:そののちのこと(無間奈落) 作家名:みやこたまち