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熾(おき)
熾(おき)
novelistID. 55931
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月のあなた 下(3/4)

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cry for the moon



 瞬間、まばゆい光が辺りを覆った。

 目が慣れると、狼男はそこに居り、ぐったりとして動かない蜜柑を抱えていた。

「……」

 日向は一瞬胸の奥が冷えたが、そのとき、蜜柑がわずかにこちらを向いて微笑んだのが見えた。
 狼男は腕の中の蜜柑を見つめた後、また飛び立つ。

「みかんちゃん!」

 今や山波は途切れ、眼下には宝石をちりばめたような都市が広がっていた。都市の先に海が広がり、海の端に今にも夕日が沈もうとしている。

(和家…?)

 海を背景に浮かび上がる大都市の夜景は、まるで宇宙の街のように見えた。
 これ以上、遠くに行かれるわけには行かなかった。
 追走劇を始めた頃こそ、盛んに攻撃を繰り返してきたが、何の効果も無いと分かったのか、今ではただ相手は飛んでいるだけに見えた。

「野郎、なかなかあきらめやがらねえ」
「もうちょっとスピード上がる?」
「もうちょっとでしたら」
「これ以上近づいたらやっこさんと追突しちまいます。あ、でもまあ追突してとっちめて、あっしどもでご友人を拾い上げるっていうのもありかもしれません」 

 いいですね、そうしましょう――ナナエが独り合点していたが、

「ヤエ、加速して」
「はい」
「ナナエ。シールド消して」
「はい。……ええっ」
「おねがい」

 日向は静かに言った。

  *

 身体のどこかが軋み始めていた。
 それはそうだ。聖石の力がなくなったのに、まだ羽根など生やしたままだ。
 そうなると分かっていながら、自分は背負っている少女を止めなかったのだ。

(止められなかった。)

 神を信じず、魔をも恐れぬ異教徒の中にさえ、神の美しさは宿っていた。
 この少女を、本当にあの村に連れて行きたかった。
 今はもう無い、あの村。

(こどもたちよ。)

 赤い瞳の天使はまだ追いすがって来ていた。
 生物としての次元が違う。
 犬が羽を生やしたところで、空で勝てるはずがない。あれは、文字通り遙かな高みからやって来たものだ。
 体じゅうが痛い。
 頭がしびれるほど疲れている。
 こころが、何故、この国に着いたときよりも安らいで。
 目の前に広がる美しい、水で出来た海。
 揺蕩う広がりはもう終わりだ、もう休めと言っているようだった。

 彼は、だんだんと青黒く暮れなずむ茜の空に向かって呟く。

「主よ、それでも私は、私もまた、最後まで手を尽くしたいのです」

 その勝負で勝てるわけがないと思いながら、彼は高度を上げた。
 通常の人間よりは遥かに、自分は薄い空気でも耐える事が出来たからだ。
 だがやはり少女は急上昇して、どんどんと迫ってくる。
 その手に刃は握られていないが、『鋭い矢』にびくともしないその手自体が、最早凶器といえた。

(目には目を、歯には歯を――)

 彼は念じた。

(来るがいい。お前が滅びるとすればそれは、お前自身の刃によって滅びるのだ。)

 右手から数本の矢を放つ。
 小鳥の様に舞う少女はそれら全てをものともせず、手を伸ばせば届くほどに接近してきた。その両手がこちらに伸ばされる。

(来い!)

 彼の胸が虹色に渦巻く鏡と化す。
 だが、伸ばされた小さな両手は、肩を掴んできた。

「返して。その子、あたしのともだちなの」

 ただの言葉。
 それはまっすぐな瞳の、まっすぐな言葉だった。

 ――老い知らず。貴方の上に平安がありますように。
 ――おーい! お前の上にも平安がありますように。

 あなたの上にも、平安が――。

「オ――」

 慈悲には、慈悲を。

「オアアアアアアアアアアアアア!」

 彼は吠え、彼の胸に有る鏡が割れた。

  *

 聖石は土地を癒し、潤し、緑を、人を、平安を導いてくれた。

 彼は晴れた日に、修復された壁の見張り台に上った。壁には新しく、祈りの言葉が、遠くから来た書道家によって流麗に彫られている。
 壁の内側には、元より遥かに大きな街が出来ていて。白く四角い家々の間を、せんせんと銀の帯の様な河が流れていた。
 その両脇に沿って生えているのはだが、椰子の木ではなくて、あの、雪のような花びらを散らす枝節の多い樹だった。皆その木の下で、罪が清められるようだ、と喜んでいた。子供たちは散る花びらを追って河を渡す橋の上にあがり、手すりから身体を乗り出してそれを掴もうとしている。

「老い知らず」
「老い知らず、この寝ぼけ犬」

 振り向くと、懐かしい、一面の砂の海を後ろに、パティマとサッタが居た。

「どうしたんだ。パンを一口食べただけでよそ見をして」
「ほんと、食いしんぼのあなたらしくないのね」

(そうだ。)

 自分たちは、昼食の途中だった。
 サッタがもう一度差し出してくれた蜂蜜を塗ったパンに食いつき、それを嚥下した後、彼は言った。

「意味なんて、無かったんだね」

 突然狼が言葉を話したはずなのに、若いひげ面の男も、その妻も、少しも驚かなかった。

「ん?」
「あの男を殺したとき…本当は何も、何一つ、手応えが無かった。終わった後よけいに、君たちに会いたくなっただけで」

 娘が、彼の鼻先に手を差し出した。

「わたしも、あなたに会いたかった」

 彼は、子犬のように鼻面をパティマの膝に載せた。美しい模様を描かれた細い手が、その額をなでた。彼は目を細め、また開けた。

「あの男のしたことに、意味なんて無かったんだ。わたしたちが歩んできた道が本当の聖なる道で、この空の下すべてを、その道を歩む命が生きている。例え最も恐るべき兵器でも、やっぱり恐れるには値しないんだ。なぜならそれで、偉大な物語が停まることはないから」

「そうだ」

「君たちが居なくなったときに感じた、星の重み。胸の中に感じた重さが、君たちが正しい道を歩んでいたことを示している。愛が無ければ苦しみは存在しない。苦しみが無ければ慈しみは存在しない。苦しみを耐えた者に、神は言っておられる。愛し合えと」
「そうだよ。老い知らず」
「祈りを、呼びかけろ。永遠に続く、物語を」

 彼はぴんと尻尾を立てて、壁の外の、金色の海に向かって歌い上げた。

「主は……、偉大なり……」

  *

 狼男は月に吠えて、吠えて、その声が東の陸にも西の海にも響き渡り、それを聞いて、太陽は沈んだ。
 満月の下で、彼の顔は半分人に、白い髭のある、肌の黒い初老の男に変わっていた。

「そうだな…だれかに自分のものを奪われたからと言って、だれかのものを自分のものにしていいわけがない」

 男は、呟くと、蜜柑をくくりつけていた結晶の紐を解いて、背中から腕の中へと下ろした。

「この娘と石は返す。すまなかった」

 日向はやや呆然としつつも、手渡された友人の身体を両手で受け取ると、すぐに呼びかける。

「みかんちゃん、みかんちゃん!」
「だいじょうぶです。ちゃんと生きてますわ」
「おうおうてめぇ、すみませんで済んだら…え?」

 男の肩と耳の先が、さらさらと砂になって崩れていた。

「あ――」

 日向はそれを見て、小さく声を上げた。
 男は、今や顔中を覆う皺を曲げて微笑んだ。

「娘よ。自分が生きる為に退けたものの前で、泣いてはいけない」
「…はい」