7月の出来事
と、奴が、ポツンと言った。
「離婚届けにハンコを押してやってよ。その代り、賢治は、怪我の診断書も作らないし、あんたを、暴行で訴える事もしないから・・。俺が、約束する。・・良いな、賢治?」
「はい。」
「Cさん、この辺で、方を着けんさいや・・・」
「・・・・・・分かったわ。判を押すわ・・・」
「そうと決まれば、話は、早い方が好い。俺が、マリの書いた離婚用紙を預かっているから・・。あんた、ハンコ持ってる?」
「そんぎゃな(そんな)もの、持っとらん・・」
「・・・あんた、Cというんだな。・・・ちょっと待っててくれる?」
俺は、時計を見た。
まだ、Yさんの喫茶店は、営業中の時間だ。電話で、Yさんと話す。
「すみません、至急、Cという認印が必要になったのですが・・」
「なんね、藪から棒に・・? ああ、今日、一緒に、うちへ来た人等の事で要るん・・?」
「はい、お察しのとおりで・・」
「・・・あ、分かった。△商事のAちゃんに頼んでくれという事じゃね?」
「はい。突然、こんな時間に申し訳ないのですが・・」
「なあに、構やせんよ。・・そうそう、あの人の処なら、大抵の認印は、売るほど在るけん・・。Aちゃんも、たまには、夜、出て来たいじゃろうけん、喜んで持って来るわ。」
俺が、礼を言った後、Yさんは、
「急ぐんなら、うちに来んさい。開けて待っとるけぇ。」
と、言ってくれた。
俺は、ややこしい相手が居るからと断ったが、
「うちの客は、ややこしいもん(者)ばっかりじゃけぇ、気にせんと、うちを使いんさい。」
と・・。
(5)
Yさんの喫茶店を出た時、既に時計は、零時を幾らか過ぎていた。
車中、俺は、マリから預かっていた離婚届の用紙を、賢治に渡し、翌日役所に提出する様に言った。
彼は、礼を言いながらそれを受け取った。
そして、二人とも、俺の家まで一言も話さなかった。
賢治が、どの様な事を考えていたのかは、知る由もないが、俺は、10年余り前、自分で固く心に誓った事を破ってしまったという思いで・・、哀しい? いや、淋しい? いや、違う・・悔しさに近い、兎に角、分かって遣った事ではあるが・・自分を責める、何とも妙な心持で・・
フィリピンで、俺が、最初に住み着いて、お世話になった村。
そこに住む漁師の娘、チャイリンと俺は、言葉も碌に通じないのに、何だかウマが合い、すぐに兄妹の様な関係になった。
時が経ち、そのチャイリンに好きな男性が現れ、二人は、結婚を望む様になった。
二人の結婚には、双方の両親とも反対だった。だが、紆余曲折を経て、彼等は、一緒になった。
そして、今では、3人の子宝に恵まれ、決して裕福ではないが、確実に、水牛が歩む如く、ゆっくりとではあるが、幸せな家庭を築きつつある。
そのチャイリンの亭主、サムが、ある時、町の有力者の息子の陰謀で、警察に逮捕された。
この有力者の息子は、かつて俺との間でもゴタゴタが有り(発端は、村の人達に対する嫌がらせ)、言うなれば、因縁浅からぬ奴だった。
俺は、本当に命を賭けて、サムを助ける為に、あらゆる手段を使って動いた。
結果、サムは、釈放されたが、彼を嵌めたつもりで喜んでいたバカ息子には面白くない。
奴は、仲間二人と共に、俺を襲って来た。
日本では、考えられない様な暴挙だが、何しろ、選挙の時、対立候補を殺せば、自分が自然に当選するから・・などと普通に考える様な国柄だから・・
その三人とのいざこざで、俺は、顎をアイスピックで刺されたが、その所為で暴れ回って、三人を身動き出来ないほどに叩きのめして、ゴミ捨て場の中に放り込んだ。
この時、俺、28歳七ヵ月。
喧嘩の後、俺は、ガクガクと、それまでに経験した事の無い震えに襲われた。何しろ、自分で立ち上がれない程の震えだった。
その時、
『ああ、今回は、死んだ婆ちゃんが、助けてくれたんだな』
と思った。そして、同時に、婆ちゃんは、
『こんなバカな事、何時まで遣ってるんだい? わたしが、お前を助けるのは、これで最後だよ。』
と言ってるんだと確かに感じた。
俺は、心の中で、それまでのやんちゃを謝った。そして、二度と喧嘩はしないから・・と誓った。
その、婆ちゃんとの誓いを・・ついに 破ってしまったんだ・・
家までの車中、まるで、婆ちゃんが生きてた頃の、子供に返った様に、俺は、婆ちゃんに見捨てられはしないかと不安でいっぱいだった。
謝ろうにも、その言葉が見付からない・・
隣に座っている賢治を見れば、素直に謝ろうとする自分が居なくなる・・
だが、屁理屈を捏ねて、言い訳をする気は、謝ろうとする気よりも遥かに小さい・・
もう、何を言っても駄目だね、婆ちゃん・・
婆ちゃんが、遠くなる・・
そんな気持ち・・
その気持ちのままで、家に着いた・・。着いてしまった・・
そこで、待っているのは、現実だ。
「おかえり・・ まあ! どうしたの、賢治君・・」
「ああ、ちょっとな・・」
多恵が、タオルを取りに、バタバタと・・
マリは、賢治の姿を見て泣き始める・・
幸いにも、愛とイチローは、既に眠っているという。
取り敢えず、少し大きいが、賢治に俺の服を着せた後、
「上手く行ったから・・ Cさんが、離婚届にサインして、すべて片付いた。」
と、簡単に結論だけを・・。
そして、事の次第を話そうとしていると、愛が、起き出して来た。どうやら、俺達が、帰った時から、目覚めていた様子だ。俺は、
「まあ、事の次第は、賢治に聞きなよ。賢治は、よく頑張ったぞ。」
とだけ言い、
「愛ちゃん、大きな声を出したから、目が覚めたんだね。俺達、これから寝るから、また一緒に寝れば良いよ・・そうだ、今日は、お客さんが、俺のベッドを使うから、俺は、ママと愛ちゃんと一緒に寝ても良いかなぁ?」
と訊いた。愛は、俺と多恵を何度か見て・・頷いた。
寝室のベッドの傍に三人立ったまま、
「どういう順番に寝ようか?」
というと、
「そうだね、よ~く考えなければ、愛が、潤ちゃんに押し潰されちゃうかもね。」
と、多恵がいう。俺は、
「じゃあ、いっその事、俺の上で寝るかい・・こんなふうに?」
と、愛を抱えて、そのままベッドに寝っ転がった。
「あはは・・」
と、愛は、小さく笑い、ベッドの中央に滑る様に寝っ転がった。
「あ、これで、順番は、決まった。愛ちゃんが、真ん中だ。ママの鼾がうるさいけど、もう慣れてるよね?」
「ママは、鼾なんかしませんよ~」
「そう? おかしいなぁ・・じゃあ、俺は、俺の鼾をママのだと思ってたのかなぁ・・」
「はい、きっと、そうですよ~。時々、隣の部屋から聞こえるから・・」
「えへへ・・ そうなの?」
と言いながら、俺は、愛をギュッと抱きしめた・・。
「・・潤ちゃん・・・」
「おっ、ママ、あなたも早く寝てくださ~い。」
ってな訳で、初めての川の字スリープでした・・
(6)
深夜、眠りに就いたのだけれど、根付いた習慣で、俺は、何時も通り、5時に目覚めた。
眠る時は、確かに俺達の間に愛がいたのだけれど、
(・・あれ・・? 隣に居るのは、愛ではなく・・多恵 じゃないか・・)