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みやこたまち
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そののちのこと(鬼)

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第八章



 真冬の十日ほど、多田は女を置いてどこかへ旅だった。それは論文を完成させるための旅だった。そういうことが、学生の間で流行っていたせいもあったが、多田の場合は、女のいないところにいかなければ、論文が進まないという、必要にせまられてのことだった。

 その十日の間、女はじっと多田の部屋にこもり、多田の服をぐるぐると身体にまとい、ひたすら何かを唱えていた。
 女は、独りになったと思った。
 自分の身体の刻印がじょじょに薄くなり、肌が雪のように滑らかになると、女は多田の万年筆や、ナイフを使って自分の身体を傷つけた。その傷みが女を現実に係留した。じんじんと疼く傷を中心に、確かに自分の身体があるのだという実感を得、その実感が女に落ち着きを取り戻させた。
 女はもう家に帰れないと思った。無断で家を空けたことで、両親がどれほど怒り狂っているかを思うと、二度と敷居をまたげないと思った。事あるごとに折檻され、自分が一番惨めだとの認識を植えつけられ、他人をおそれるあまり、微笑するしかなかった女の、始めての拠り所が、何かを心に抱え、すさんでいく多田一郎であり、多田によってつけられる刻印だったのだ。自分が必要とされているということが、女の存在理由だった。
 力の限りに女を求める多田一郎が女はいとおしく、また、求められることで、女自身が存在していられる。多田の旅の間、女はひたすらに待つことしか出来なかった。
 女は自分が消失するのを恐れるあまり、自分をぐるぐる巻きにするしかなかった。しがみつけるものは、多田一郎の痕跡だけだった。


 穂積信夫の影が消えて半年がたっていた。


 一郎はディーゼル列車の座席に身を沈め、自分が平成でいることに満足していた。このように自分が平成でいられるのは、あの女の存在があればこそだと、一郎は認めていた。だが同時に、その女のいない所へ逃れたいという欲望がふつふつと沸き起こる事も、一郎はかすかな罪悪感と共に認めていた。
 女はひたすらに求める女だった。一郎は求めているつもりで、実は与える側にいた。女から見れば、自分が一郎に全てを与えているということになるだろう。それが一郎には心中の棘となって疼いていた。
 一郎は闇雲に列車に乗った。この列車がどこまでゆくのか一郎は知らなかった。
 山間に雪が積もっている。一面の杉の林とトンネルと雪とが幾度も交錯する。車内は昼間だというのに電灯が付きっぱなしだ。毛羽立った緑の別珍張りの座席は、異様に盛り上がっていて、生地だけが緩んでいる。暖房のため、尻が熱かった。だが心地よい振動が、一郎の気持ちを穏やかにしていた。
 もう、何時間列車に乗っているのか知れない。記憶ですら夢だったかのようである。遥か昔から自分は列車に乗っていて、これから先もずっとここに座っているのだという思いが、最も真実に近いように感じられていた。
 緑、白、闇が交互に続いた。車内の電灯はオレンジ色だった。駅も無く、車掌も回ってこなかった。大学も、女も、穂積信夫も、長い旅の途中に思い描いた幻だったかのようだった。自分の家、あの没落した家、憤死した父、そして、死んだ母、いなくなった女中の娘。
 皆、夢だったのだ。
 自分の人生とは、こうして列車に乗りつづけることなのだ。トンネル、雪、杉木立、トンネル、雪、杉木立。車内はオレンジ色の光ににじんでいる。車掌も来ない。駅も無い。

 幻想に浸って、幻想こそ現実だったと確信し、その現実に慣れ始めた頃、列車は最後の駅に滑りこんだ。
 ―止まった?
 多田一郎は列車を降りた。右足が支えを無くしてバランスを崩した。脚が突っ張ったままコンクリートに激突し、膝に痛みが走った。落ち着いて振り返ると、列車の床は自分の腰の高さにあった。
 裸電球のついた電柱が前方に見え、改札らしい建物がある。そこには駅員も車掌もいなかった。乗り越してきた一郎は、一駅分の切符でこんな再果ての地に到着したという事実に馴染めなかった。しかし、ここには金を受け取る人間も、切符を預かる人間もいなかった。誰一人いなかった。電話さえも無かった。民家もなかった。
 駅前はロータリーらしかったが、中央の築山は枯れ木と枯草しかなかった。バス停の時刻表は錆び付いていて判読できなかった。そして駅入り口に掲げられた大きな時計には、短針がなかった。
 これほどすさんだ町は、そうざらにはないだろう、と一郎は感心した。そのためか、今夜泊まるところが決まっていないという事実に、まるで現実味を感じられなかった。
 今は冬であり、山間のこの町の吹きさらしのベンチで寝ることは、死ぬことだった。しかし、それは冗談のように思えた。
 一郎は駅に戻り、腰を下ろした。
 ジャケットを通して冷たい空気が肌を刺した。薄暗い駅舎の中央には簡単な柵で囲われたダルマストーブがあった。真っ黒なダルマストーブこそが、全ての寒さの根源であるように思えた。
「こう暗くては、資料も読めやしないな」
 一郎はそう思い、静かに笑った。冷たさが一郎の意識を明瞭にしていた。次にぼんやりとなった時が死ぬときだろう、ということははっきりと分かっていた。そして、死ぬなどということをこんな所で考えている自分が滑稽でならなかった。尻の熱い、あの列車が懐かしく思いだされた。
 静かな夜だった。一郎は手を組んで、目を閉じた。