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みやこたまち
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そののちのこと(鬼)

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第九章



 穂積信夫と女とは学校で言葉を交わす付きあいを始めた。学校といっても、信夫は特殊なカリキュラムを実施していたので、時間は十分にとることが出来た。
 最初の頃は、裏庭の枯れ池のほとりが、決まりの場所だった。草むらにおおわれ、脚の折れた真鍮のベンチや、水盤がうっちゃってあるその場所は、一般の学生は、存在することすら知らない場所だった。本館事務棟宿直室の納戸の扉がこの区画への唯一の入り口だった。
 この大学は、十年ほど前に大工事の末、新設計のものに立て替えられていた。正門をくぐり、グラウンド、体育館、武道場をこえ、学生食堂、チャペル、研究棟、語学棟、部室棟、講堂と購買部を抜けて陸橋を渡る。そこからは教室棟が七つほどあり、一番奥に本館があった。
 正門から歩いて、15分ほどかかる細長い敷地で、階段、林、陸橋という変化に富んだ設計は、賓客の好評を得ていたが、学生にとっては不評だった。
 中庭は、前設計以前に作られたもので、敷地の最も東端に位置していた。ちょうど三角形に出っ張った敷地に沿って作られていたのだが、新設計では見捨てられた区画だ。

 池の中に、半ば崩れてある噴水には、かくて思想研究会のアジトだったという歴史をとどめる落書きがある。この会が学校との闘争であえなくつぶれた今となっては、この場所への入り口は誰も知らないはずなのであった。
 信夫と女は、授業の無いときは必ずここへ来て、時間の限り相手を待った。ある日は会うことが出来ず、ある日は半日を共に過ごした。次の約束をしないことが、暗黙のうちに二人の了解事項となっていた。「次はいつ?」という質問は、互いを束縛し,自身が時間に引きずられる結果となるからだ。
 女は、日陰になったベンチに座り、テキストを読んだり、そよぐ風を感じたりしながら時を過ごした。物音に敏感に反応する身体をもてあましながら、待つ時間を、空白ではなく自分自身を見つめる時間に充てようと努力していた。
 信夫の方は、ただそこに座って時を過ごすだけだった。だから、女が背後から近づいていっても、振り向くことは無かったし、気づいたからといって、格別の変化も見られなかった。そんな態度が、女には物足りない気がしていた。バッタの跳ぶ音にさえ振りかえってしまう自分が、腹立たしく思える時すらあった。
 だが、信夫に抱かれていると、そんな不安は消えてしまう。二人で雲の流れていくのを見ているだけでよかった。これまで多くの人に囲まれていることが多かった女は、ただ独りを待ち、ただ独りの傍らに寄り添うことの幸せを感じていた。
 信夫は女を見て、そして微笑んでいる。
 幸せな家庭生活を送り、両親を敬い、先輩を立てて後輩の相談相手になるという、完璧な優等生を貫いてきた女の精神は見えないところで何かが狂っていた。他人の人生が心のほとんどを占め、自分自身の問題など何も無いという献身的な姿勢が、女の第二の天性だった。ところが、信夫といると、女は自分のことを考えずにはいられなかった。

 最初、女は信夫が来ると、飛びついて泣いた。信夫は何も言わずに女の頭を撫でた。
 なぜ、そんな風になってしまうのか、女には分からなかった。これまでの経験では、誰かといれば、その人間の感情や、興味が手に取るように分かり、その感情や興味に従って相手の心を高揚させようという思いが女を動かすのだった。しかし、信夫からは、そうした一切が伝わってこない。信夫は、ただ、目の前にいた。そして、何も求めなかった。
 それは彼女の存在を全否定することと同じだった。女の無意識はそのことを感じ取っていた。だから、泣いたのだ。

 だが、一年が経ち、そんな会合にも慣れた。いまは、自分自身について存分に考えるための空間を与えてくれる信夫が、女を形作る重要な要素になっていた。集団の中での自分の振る舞いを反省し、自分一人でも生きてゆける力を与えてくれる信夫は、女の成長の助けとなっていた。

 信夫は女を家に誘った。それは、二度目の春だった。中庭にも花が咲き、蝶が舞う季節だ。「もう、一年が過ぎた」と女は思った。そして、信夫の招待を嬉しく受けた。
 「私、このごろ随分と落ち着いてきたって、家でも評判なの」
 女は、八角形の円い部屋で、コーヒーを飲みながら嬉しそうに言った。信夫はサイフォンを片付けながら微笑んだ。
 「自分でもね、本当に幸せだなって思うの。生まれてきてよかったって思うの」
 信夫は、女の横に腰をかけた。部屋のアルコーブには、夕方の光が射し込んでいた。夕日を受けて彼女の髪が光り、まるで後光のように見えた。安らいだ表情は光の中に溶けていた。金色のなかで、女は信夫にむかって微笑んだ。信夫は息が詰まったようになった。

 信夫が学校に出なくなってから、女は週に数度、この家に通うようになった。大学からは遠く、道も悪いこの家に、女は歩いて来るのである。
 川べりの土手を北へ向けてひたすら歩いた。滔々と流れる川を右手に感じながら、ゆっくりと女は歩いてくる。
 「一人で歩くの、楽しいわ。空気の匂いや、色が少しずつ違う段々になっていて、不意にかがんだり、背伸びをしたりしながら歩くの。川の方は冷たくて、なんて言うのかしら、丸い感じでね。雑木林に入ると薄いベールみたい。あの中庭であなたを待ってる時には、何なのだろうって思っていたの。でもあれは空気が段々になっているってことだったのね。私、歩いているとね。本当は歩いていなくて、ただ、魂だけが空気の中を移動しているように思えてくるのね。足は勝手に前にでて、手なんかもリズムをとりながらひとりでに揺れているの。真っ直ぐに前を、遠くを見て歩くんだけど、本当は何も見えていないの。見えるけど、見えないの。笑ったわね。今、笑ったでしょう。巧く言えないの。でも、本当なの。わたし、どこまでも歩いていけるような気がするし、歩いてきたような気がするの」
 女の言葉はころころと、鈴のように部屋に響いた。女の息は、部屋の空気を、何か優しく暖かいものに変質させていった。
 信夫は、涙が流れ出そうな自分に気づき、あわてて、コーヒーに口をつけた。
 他人と自分の挟間でもがいていた魂が、解き放たれて自由な飛翔を見せるとき、それを目の当たりにしたものは、羨望し嫉妬する。だが信夫は、純粋に美しいと思った。

 女がどのような成長を見せるのか、じっと見守ってきたつもりだった信夫は、この時、もはや自分が女にとって無用の長物となったことを悟った。これ以上一緒にいても、新しい展開は望めないだろう。信夫はそう思った。しかし、それを切り出すことができなかった。

 夏が過ぎ、秋が終わり、冬を迎えても、女は足繁く信夫のもとを訪れた。
 あまり遅くなると、信夫の隣の部屋に床を延べ、朝を迎えることもあった。風の強い日などは、恐ろしいからといって、信夫の布団へやってくることもあった。
 そんな夜は信夫は女を抱えて眠るのだが、自分の胸に鼻先をくっつけて縮こまる女は、信夫にとっては、ただの暖かで心地よい物でしかない。その、何でもない物としての女を、信夫は手放すことが出来なかった。