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みやこたまち
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そののちのこと(鬼)

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第七章



 最終学年にならずに名前が消えた穂積信夫は、そのころ一人の女を無くして悲しみのどん底にいた。
 自分は一切の欲望や、しがらみから無縁でありたいという姿勢が、一人の女によって崩れ、再び孤独となったとき、孤独にもさまざまな種類があったのだと思い知らされた。
 これほど庭が荒廃したことは無かった。また、信夫自身がこれほど憔悴したことも無かった。
 この別離は、信夫が、生涯を贖罪に費やさねばならないほどの事件だった。

 女は、信夫と同じように特別推薦によって、大学へ入学した。
 短くきり揃えられた髪と、大きな瞳が、身体中から発散する活動的なオーラに相応しい、背の小さな女だった。
 その女の目から、時折光が引いていく様を、信夫は興味を持って見つめていた。女がうつむく時、その左目が淡い茶色に変わる。右目は飴玉のような黒なのだが、どういう加減か、左目だけ色を変えるのである。
 そういう時、女は全ての活力を失い、そこに立っていることすらが奇跡のように感じられた。
 ただ、そうした瞬間は、よほど注意深く観察していなければ瞬きの向こうに見逃してしまうほどの一刹那だった。このことに気づいた信夫の執拗さは、推して計るべきであろう。
 信夫自身は、見ているという意志の無いままに、視線を吸い寄せられていたのだ。だからこそ、それほど不躾な眼差しを女に向けていられたのだと言える。

 女は非常に活動的で、表情にも曇りが無く、感情を全身で表現していた。手足がパタパタとせわしなく動き、瞳はくるくると回った。細い腰、細い脚、細い腕は小気味良く辺りの倦怠を切り裂き、新しい風を送りこんでいた。
 その風は信夫の肺腑にこれまでになく冷たい空気を送りこんできた。
 
 穂積信夫の視線の先で揺らめく一つの物体は、あらゆる光を反射してきらびやかな光景を生み出す鏡だった。かすかな光でも、女が反射することによって幾百という光の粒子が飛び散る。
 だが、女自身が光を発することは、決してないのだ。
 信夫は辺りの情景に必死で反応しつづける女の笑顔を見て、憤りをおぼえた。時折見せる薄茶の瞳は、女の内面の光が漏れ出たものだろう。それは外部に照射されることなく、内面のみを照らす、自省の光なのだ。この光を持つ人間が、いかに苦しく生きがたいものであるのかを、信夫は分かっているつもりだった。内部に光を持つ人間は、それを忘れようと、外部に意識を集中しなければ、片時も耐えられない。
 信夫は長く独りの暮らしを続ける間に、そうした事を学んだ。解決方法は百人百様であろう。だが、目の前の女が行っている方法の先には、崩壊が待っているという事を、信夫は直感的に感じ取っていた。その危うさが、女の表面に微妙なゆがみを与え、それが新しい乱反射の源となっているのだ。


 信夫が女を見たのは、特別推薦者親睦会という、選民意識の温床だった。取りあえずは仲間、という和合がその会の主調だったのだが、その穏やかな空気の中で、女は異様なぎらつきとして、信夫の目には映っていた。
 会の後、皆が部屋にひきこもる折も、信夫は女を凝視していた。女が集団から離れるのを見計らって、声をかけるためである。扉を潜ろうとした女が信夫の視線に縛られたように、ふらふらと近づいてきた。信夫はその女の様子に軽い戦慄を覚えた。
 女は、怯えを隠そうともせず、信夫の前でうなだれた。信夫は女の頭のてっぺんのあたりを黙って見つめていた。女はしばらく口篭っているようだった。先ほどまでの快活さは微塵も感じられなかった。女がなぜ、これほどしおれているのか、信夫には分からなかった。

 「あの……」
 という微かな声が聞こえた。信夫は聞き取るために腰を屈めた。思いきったように顔を上げた女の瞳が、まともに信夫にぶつかった。女の左の瞳だけが、確かに、薄茶色だった。
 「本当にごめんなさい。あの、私の何がいけないのでしょう」
 女の声は震えていた。両手を硬く握りしめながら頬を赤らめている女は、叱られるのを待つ少女のように見えた。他の学生達はもう、自由時間のつもりで思い思いの場所に散っていた。だから、この場所は、逆に誰にも邪魔されることは無かった。
 「別に何も」
 信夫はそう答えるしかなかった。微かな苛立ちが心に起こるのを感じた。女はさらに怯えたように見える。まるで、信夫自身にも掴めていない苛立ちを、敏感に察知しているようだった。
 「なぜ、そんな風に思うのです」
 「あなたがずっと私を見ていらしたからです」
 信夫は女の肩に手を置いた。女の肩に力が入った。しかし女は拒まなかった。信夫は、さらに女を自分の身体に近づけ、片手で女の頭を撫でた。女は頭を撫でられて、不思議と神経が休まるのを感じた。撫でられるごとに子供にかえっていくような気がしたのだ。信夫の身体は暖かかった。
 「すまなかった。僕は君をそんなに見つめていたということに気が付かなかった」
 「お気づきにならなかったのですか?」
 女は顔を上げようとした。しかし信夫は女の頭を抱え、自分の胸にしっかりと押さえていた。女の耳に、信夫の声と、信夫の声が信夫の身体の中で反響する音と、信夫の体内から発せられる音が混じって聞こえた。くぐもった暖かい感触は、女の心をより一層安楽にした。
 「君はそのままでは壊れてしまうよ」
 信夫の言葉は、女の耳には子守唄のように響いた。