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みやこたまち
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そののちのこと(鬼)

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第六章



 多田一郎は、卒業論文に専念していた。髪を短く切り、洋服も見苦しくないものを着るようになった。眼鏡をはずし、まっすぐに前をみて歩くようになった。そうしてみると、今まで、見まい、見せまい、と思っていたものが何であったのかが分かる気がした。
 うつむく事で圧迫されていた胸に空気が通うようになり、目の前を覆っていた髪が、隠すためではなく隠れるためだったことを知った。

 多田の重荷は、最終学年への進級者名簿によって取り払われたのだと、大方の学生は察していた。そこから、穂積信夫の名前が消えたという事実だ。これまで不在の存在を誇示していた穂積信夫が、とうとう消滅した。これは一部の学生の間では、かなりの動揺を招いた。そして、多田の変化は、その頃と重なっていたのである。
 ―偶然だ。
 一郎は、自分の変化を穂積信夫の存在と関連付けられることを嫌った。

 また、その頃から一郎にはきな臭い雰囲気が付きまとうようになった。吊りあがった一郎の目と薄い唇が、全ての学生を卑下しているかの印象を植えつけていったからかもしれない。
 これまで、一郎を蔑み、軽んじていた者達も、一様に口をつぐみ、一郎を直視することさえなくなっていった。
 取りざたされる穂積の噂を耳にしながら、一郎自身は穂積信夫を意識していないと自らの言い聞かせる必要があること自体に、大きな引け目を感じていた。
 
 長男である事、家を出ている事など境遇が似ていないこともない二人の、一方が悠々自適の生活を暮らしで、もう一方がかつかつの蓄えを食いつぶす生活をしなければならないこの違いは、当人の、ではなく家の力関係の差異に他ならなかったのだが、その不公平さそのものが、たまらないのだった。
 底が見えた壷を抱えて暮らす一郎と、残金を意識する必要もない信夫との差は、個人の努力で埋められるものでは無い。いや、個人の力で埋めるなどという行為自体がもはや敗北者のそれなのではなかろうかと、一郎は思うのである。
 見知らぬ男に狂おしいまでの怒りをおぼえる自分の顔は、鬼のように見えるだろう。多田は、その怒りを絶えず放出して時を過ごした。結局、多田の変化の原因が、穂積信夫に発していることは、間違いの無いところなのであった。


 その一郎に惹かれる女がいた。名前も明かさぬまま、女は一多田に近づいた。多田はそうしたことに慣れていなかったが、ある種の心地よさは否めなかった。
 女は多田を「愛している」と言った。多田はごく自然に女を抱いた。


 校内の陸橋だった。夕暮れの橋の上には凄まじい風が回っていた。女のコートははためき、マフラーは宙に遊んだ。
 多田は女が風のようにはしゃいでいるのを見て、背後から忍び寄り、女のマフラーを掴んだ。女は気付き振り向く。毛糸のマフラーが細い首筋に絡む。ほつれ髪が女の顔に落ちる。
 多田はマフラーを両手で引いた。
 女の表情が微かな苦痛を訴える。それは、歓喜の表情に似ていた。
 風が多田の背中を押す。両手を広げるとマフラーは閉まり、女の口が開いた。女の背中にマフラーごと手を回すと、女の目が多田を見上げた。コートの前が開き、カーディガンのボタンが飛ぶ。真っ白なブラウスの下に、肌の温もりを感じた多田は、そのまま女の口を吸った。女は首を精一杯ねじ上げられたまま、求めるように唇を開いた。

 女は、多田一郎に出会えたことに感謝した。自分をしっかりと抱きしめてくれる者を切望していた自分に気づいたのだ。女は、骨が軋むほどの愛撫を受けたが、この痛みこそがこの世に生を受けた証であると思った。女は、自分の痩せた体がいとおしく、また、もどかしかった。
 多田は、女がそばに居ることに慣れた。感情が高ぶった時など、女を抱いていると不思議と心が静まり、脳髄のしびれるような快感が、多田を無心にした。女は従順に多田を求め、多田は苛立ちをぶつけるように、女を愛した。