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みやこたまち
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そののちのこと(鬼)

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第四章



 時間がだらだらと流れた。汗と精液と、幾らかの血が流されたように。皆が流れを作っている気になりながら、じつは流されているだけであるということを、知らないでいる者は一人もいない。そんな絶望のなか、一人の学生が残した出来事は、流れを一時でも止めるだけの力を持っていた。本当に一時だけではあったが、止まらないことを前提とした流れが、無理矢理堰き止められたことで、全ては微妙に変化した。それは遠いところで大きな誤差を産み、信夫を飲み込んだ。
 学生は多田一郎という、目立たない文科の生徒だった。

 多田家は旧家で、しきたりを重んじる家風だった。家業は思わしくなく、没落しつつあった。もちろん当主はそれを頑迷に否定し、体面を重んじる性質をいささかも替えようとはしていなかった。
 一郎は、名前の通り長男であり、多田家唯一の跡取りとして、厳しくしつけられた。一族の命運は、一郎の将来にかかっていたのである。実際、本家の威信は衰退しており、家業に縛られなかった分家が、それぞれに力を持ち始めていた。一族が一同に会することはほとんど無く、それぞれ虎視耽々と自らの富を追求していた。
 年老いてからの子だった一郎は、昔気質の父母の間で神経質な子供として成長していった。親の顔をうかがい、自らの欲求を殺すことを覚え、ついに欲求を感じない子供となった。素直であり、学業成績も悪くなかった。
 一郎少年は暗い顔さえしなかった。元気が無いことは父を不快にすることを知っていたため、人一倍大きな声で返事をしてみせた。教師の間でも、大きな返事は美徳とされた。
 一郎を知る全ての大人は、文句のつけようの無い跡取りだと考えた。ただ、一人、父親を除いては。
 回りの人間を騙しながら、自分自身を見失った一郎青年は、齢十七にして自由になった。家業が破綻し、父親が憤死したのだ。母親はすっかり参ってしまい、寝たきりになった。
 
 こうした経緯は、大学では知られていなかった。一郎は、陰気な臆病者だという見方が一般的だった。それは外見とあいまって、間違いの無いところと思われていた。

 「諸君が本日この時刻に同じ場所に介しているということは、非常に素晴らしい縁の賜物なのです。諸君らのそれぞれの人生において、今後の数年間を共有するということは、とりもなおさず、なんらかの影響を与えあってゆくことであると言えるのであります。全員が自らの意思でこの場に集いました。志を同じくする者達を、同士と呼ぶのです。いかなる時も協力し合って、志を果たすために獅子粉塵の努力を怠ることなく、きっと未来を担う人物に成長していかれることを、切に希望してやみません」
 教室では、そんな教師の挨拶が空々しくこだましていた。誰の体内にも入っていかないこれらの言葉は、机やら、頭蓋に反響するだけだった。
 教師の言葉はまだまだ続き、可能性の種子であるところの学生達の我慢は限界を越えつつあるかと思われた。
 自らの言葉で自らが奮い立つ人間は、軽率で、底の浅い馬鹿者だと、多田は思った。だが、それは思っただけのことだった。

 辺りを見渡すと、頬杖をついてあくびを噛み殺すもの、机に悪戯書きをする者、隠れて文庫本を読むものなどがいた。皆、一様に退屈していた。しかし、退出する者はいなかった。こうした忍耐力は、それまでの学校生活で嫌というほど鍛えられている者ばかりだったからである。
 隣の席の後ろから三番目が空席であることに、多田は気づいた。その空席の主が穂積信夫だった。信夫はオリエンテーションに出席しなかった。

 青年達は、それぞれが牙を隠しながら、辺り触りの無い会話を始めた。
 大方は、「この最初のオリエンテーションを欠席した奴は、もう駄目だ」と囁きあい、キャリアからの脱落第1号を揶揄した。多田は鞄を背負い、教室を出た。それを指差して笑う者達と同じ笑みが、多田の口元を歪めていた。

 多田はひっそりと講義を受け、学食に座り、そして帰った。学生達は、最初の試験までは、多田を蔑んでいた。根暗の低脳だと思っていた。しかし、試験の結果が貼り出されると、根暗のガリベンと称されるようになった。そしてその頃から、多田のノウトを仲介する、要領の良い学生が暗躍し始め、多田が取る講義の出席者は減少していった。
 このうつむく秀才のノウトは、講義よりも詳細でしかも簡明だった。だが、直接に、ノウト見せてくれという学生はほとんどいない。
 ノウトは盗まれ、コピーが作られたのち、教室内に放置されるのである。だが、多田は全く動じる気配はなかった。学業など余技に過ぎずノートを書くのは暇つぶし以外のなにものでもなかったからだ。

 多田が目立たない生徒であったことは、ある意味で奇妙な現象だった。学生達は、自分があの陰気臭い奴よりも劣っているという事を認めたくなかった。多田という存在は、ただノウトであるだけで十分だった。多田が講義を休むと、皆は多田につめより、真面目に講義を受けろと脅した。多田はうつむいたまま何も言わなかった。
 いつもうつむいているものだから、容姿はその性格と同じく醜いに違いないと思われていた。前髪はいつも鼻の先まで落ちていたし、服はいつも同じ、肩と肘の抜けたジャケットだった。眼鏡はセルロイドの黒ぶちで、靴底は剥がれかかっていた。体格は貧弱で、水泳の授業は必ず欠席した。
 鼻は決して低くはなく、鼻孔は楕円形と三角形の中間くらい。唇は薄く、頬はこけている。一重でつりあがった目をしていて、顔の印象はおそろしく神経質そうではあるが、実際は美男子に属しているのである。ただ、眼鏡が、圧倒的にその魅力を殺していた。身体はやせ方ではあるが、骨格はしっかりしていて、肩幅はかなりあり、そこからは長い腕が下がっている。猫背で、膝をまげて歩く癖がなんとも不格好だったが、足は細く長かった。長い前髪が鋭い目を隠し、さらに眼鏡で全体の印象をぼやけさせている。猫背であることと、膝を曲げることで実際の身長よりも15センチは確実に小さく見える。すぼめた胸によって、なで肩に見える。
 多田は、自分が非常に攻撃的に見えることを、知っていた。

 父親が死んだ年から、目に見えて多田一郎の身体は成長を始めたのだ。肉はそげ始め、鼻筋も通ってきた。自分が変わっていくことを、多田はしばらく気づかずにいた。女生徒達の間で自分が噂されている気配を感じ、多田は愕然としたのだ。
 改めて、鏡をまじまじと見つめた。服を脱いで、青白い身体をくまなく目に焼き付けた。そして、これが自分なのだと思った。多少の自信がわき起こった。が、それも暫くしてなえた。
 この外見に見あうだけの印象が、周囲には浸透していなかった。自分は相変わらずガリ勉タイプで、気の弱い坊っちゃんでしかなかった。
 外見しか判断する術のない後輩達も、結局、回りの者が語る言葉に丸めこまれていった。これまでとは違うのだという内面の叫びは、周囲の認識との格差によって増幅されていった。

 或る日、部屋に戻ると同時に、小使いが走りこんできて叫んだ。

 「奥様が、お、奥様が……」