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みやこたまち
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そののちのこと(鬼)

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 「私は知ったのです。穂積信夫というのは、あの人と、そして私との中に共に潜んでいる影のようなもの。それは、つまりあの人であり、私だったのです。穂積信夫という人間が本当にいると信じたことなど、私は一度もありません。あんな訳の分からない名簿だけで、人間が存在したり、いなかったり出来るはずがありません。あなたは、その影に怯えきっていた。同時に、崇拝していたのではなくって? 私は、あなたが歯噛みをしているのを見るたびに、駄々っ子をあやす母親のように振舞ってきたのです。あなたは、それを知らないはずは無いのに、私を試すような真似をしているのです。本当はあなたが私を求めているはずなのに。あなたは私に境界を示してくれたけれど、同時に、あなた自身の存在意義をも獲得していたのです。私達はどちらが欠けても駄目だということが、これでお分かりになったでしょ。あなたは、穂積信夫と呼ばれたいだけなのです。そうして、そのように暮らしたいだけなのです。穂積信夫の過去を想像して、自分の過去を笑うのです。あなたはそうやって穂積信夫を創り出して、今度はその幻にとって変わろうというのでしょ。でも、あなたは私も連れて行かなくてはなりませんのよ。だって、私はあなたの企みを知っているんですもの。だから、あなたが穂積信夫でいたいのならば、私を側に置いてくれなくては駄目。私には、名前が無いんですもの。私はあなたと共にいられれば、名前には頓着しないわ」
 信夫は女の目を覗き込んだ。女は信夫の視線を真っ向から受けとめた。光の加減だろうか、女の左目が薄茶色に光っていた。
 信夫はその目を見て、魂が霧散するような心地がした。そして、体をソファーに沈ませ、顔の前で手を組んだ。
 女は勝ち誇ったような顔をした。目が輝き、口許から白い歯がのぞいていた。
 指の隙間から女の表情を盗んでいた信夫は、その顔を見て静かな声で言った。
「僕は、穂積信夫だ」
 女は口許を袂で隠して、ホホホと高笑いした。
 信夫は自分が穂積信夫であるということを説明しようとした。そして、多田一郎とは違う人間であるということを、女に理解させようと思った。
 室内は暗く、寒くなった。風見が耳障りに軋んだ。正面のソファーに座っている女の黒い着物が、闇に溶け始め、似たりと笑った白い顔だけがぼんやりと見えた。窓を背に座っている信夫の顔は、もう闇の中だ。
 女はすっかりくつろいだ様子でソファーに身を沈めていた。信夫に向けられた眼差しは、信夫を見つめるでもなく、また無視するでもなく、そこにあった。女は闇のなかに、はっきりと多田一郎を見ているのである。
 信夫は、自分の部屋で、気の違った女に押しかけられて、思い込みを押し付けられているだけだと、自分に何度も言い聞かせた。
 だが、自分が多田一郎ではない、と証明することなどとうていできそうに無いとの思いが、信夫を気弱にしていた。
 目の前の女はバッグの中からタバコを取り出し、火をつけた。マッチの炎が女の顔を浮かび上がらせた。炎を映す瞳は、その瞳こそが燐光を放っているのかと見まごうばかりに熱く、幾重にも澄んでいた。
 一瞬浮かんだ女の顔が、信夫の網膜に焼きついた。目を閉じても、その顔が見えた。その顔は、昔、自分を存在しない者として滅却した、あの女に似ていた。

 信夫の心象と、眼前の女とが闇の中で境界をなくしていた。

 信夫は、いつも感じていた体内の不快感が消えていることに気づいた。
 信夫は立ち上がって、女に寄り添うように座った。肩を触れさせながら、戸外の揺らめきに目をやっていた。雲は相当な速度で流れた。二人は手を取り合った。まるで、自分自身の手を握っているかのようだった。信夫はその感じに、肉の匂いを嗅ぎ取った。不快感がよみがえった。