小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」
みやこたまち
みやこたまち
novelistID. 50004
新規ユーザー登録
E-MAIL
PASSWORD
次回から自動でログイン

 

作品詳細に戻る

 

そののちのこと(鬼)

INDEX|14ページ/17ページ|

次のページ前のページ
 

第十一章



 多田一郎は、雪深い山奥に宿をとっていた。以前、卒業論文を書くために、この付近を彷徨した折、駅舎で凍えていたところを、この洋館の女将に救われたのだった。あのときは一週間程度の滞在だったが、人里離れた山中でのこと、自然二人の心には温かい物が流れることとなった。
 多田は女から逃れてここまで来た。
 正確に言うと、女が映し出す自分自身の影を恐れて逃げ出したのだ。多田にはそれが分かっていた。分かっていても抑えることの出来ない衝動が、多田をつき動かしていた。

 就職のあては無く、蓄えは心細くなった。現実から逃れるために適当なのは、生死の境にあるこの土地しか考えられなかった。だから多田は列車に乗って、再びこの地へ来たのだった。
 こちらは想像以上に冬だった。多田は用心のため持ってきていたマントを羽織って、山道を下った。雪はまだ無かったが、日陰に入ると土が凍っているのが分かった。杉林の下をひたすら歩くうち、多田はだんだん、自分の中の嫌なものが浄化されていくような思いに捕らわれた。それは、鼻腔を刺し、耳を削る冷気のためか、それとも、杉の葉から分泌される成分によるものなのか。
 さまざまな曇りが掻き消えていき、体が冷気に同化し尽くしたころ、多田は目指す洋館の前に立っていた。
 洋館はそのままあった。女将は不在だったが、鍵の在処は分かっていた。
 多田は中に入り、女将が使っている部屋に火を起こした。焼ける炭の匂いがした。久しく干していない布団の匂いがした。かび臭い畳の匂いがした。女将のつかう白粉の残り香がした。ここは、全てが古びていた。全てが忘れ去られていた。ここにいれば誰にも煩わされることは無かった。
 部屋の真ん中に胡坐をかき、押入れの襖を見るとも無く見ながら、多田は、何かを待っていた。全神経が研ぎ澄まされていた。清浄な空気を体中に吸い込み、迷いは微塵もなかった。
 もはや、後戻りは出来なかった。
 汗を拭って、多田は冷えた部屋の片隅にしゃがみこんだ。雪がひっきりなしに舞い、外は早い夜を迎えていた。雪はしばらくやまないだろう。そういう降り方だった。多田は、またも自分の都合の良いように物事が運んでしまったことを、怪しんだ。先ほどまでの、清澄な心持は、どす黒い粘液のようなものに変わっていた。
 多田は、残ったものへの責任を考えた。このまま雪が全てを包み、一人で死んでいくことを思うと、寂寞とした。だが、女と相対することが多田にとって恐怖であることは、まごうごとなき事実だった。
 女を見たら、自分を抑制することは出来ないだろう。自分の両の掌に、まざまざと残るあの感触が、多田にそれを教えていた。
 暗い部屋で、多田は思案していた。女に全てを告白することで、自分の責任を女に転嫁することが出来るか、否か。そして、もしそれが許されたとして、自分には何が残るだろうか。雪が多田を閉ざす前に、結論を出さねばならなかった。


 信夫は久しぶりに、あの夢を見た。ソファーでのまどろみは、ほんの数時間のだったにもかかわらず、あの赤い風景が眼前に広がって、それが、目覚めた後にも網膜に朱のフィルターをかけていた。かたわらで、女が信夫を見つめていた。
 「起きたでしょ」
 「ああ。あなたは、何時から起きているんです」
 「ずっと。私は眠りたくないから、起きているの」
 そういう女の目は赤く、目じりは少し濡れていた。
 「泣いたのですか?」
 「本当は少し眠ってしまったの。それで、悔しくて泣いたんだわ。」
 女は信夫の体にしなだれかかって、信夫の顎の下から顔を見上げた。女に押されて、信夫の体がソファーに沈む。女がその上を這い登ってくる。
 「何が悔しかった?」
 「あなたがどこかへ行かないように見ていなけりゃ、私は心配でならないの」
 女は信夫の手をとり、自分の首へ当てた。
 「さあ、絞めてちょうだい」
 信夫は、手に力をこめた。女は口を薄く開け、燃えるような舌を出した。信夫は力を抜くことができず、女と体を入れ替え組み伏せ、上からさらに絞めあげた。
 女の手が信夫の肩口まで上ってきて、それからばったりと落ちた。信夫はようやく首から手を引き剥がした。死んではいない。ただ卒倒しただけなのだろう。女にとっては、これが眠りなのだ。手に残る気だるさが心地よい痺れとなって脳髄にしみた。女を殺すのは簡単だと、信夫は思った。
 そして、そう思うと余計に、この女を守らなければならないのだという使命感が強まっていくのだった。それは、非常に不快な感覚だったが、受け入れなければならない運命なのだ。信夫は、諦めにもにた気持ちで、女の額の冷たい汗を指で拭っていた。

 
 多田一郎は、白闇の中へひらひらと舞い落ちる振袖のあでやかな色彩を、夢うつつに眺めていたが、ふと目を上げると、雪明りの中に黄ばんだ襖があった。
 周りにあるのは、薄暗い闇ばかりであった。
 寒さの中で意識を無くす寸前に出会った女将のことを思い出していた。
 自分の手を闇に透かしてみると、真っ赤に染まっているように見えた。おそろしくなって目を閉じる。しかし、その赤は、まぶたの裏にもはり付いていた。
 多田一郎は後悔の念に苛まれながら、頭を掻き毟り、襖を足蹴にした。破れた襖に点々とした赤が飛び散った。手をついていた畳がべっとりと赤く濡れていた。
 巨大な赤いものが、一郎を捕らえようと迫っている。だが、自分はそうやって捕縛されても仕様の無い事を積み重ねてきたのだと思った。逃れられるとも、逃れようとも思わなかった。
 捕らえられたからといって、何が変わるわけでもないのだと、思った。既に、一郎の両の手のひらは真っ赤に染まっていたし、染まってしまった者の喜びに打ち震えていたからだ。
 結局、自分のあり方は一つしかないのだと思った。そう思うと、今、足下に赤い溜まりをつくる粘液でさえも、好ましいものに感じられてくるのだった。


 女は多田を求めた。信夫は多田として女を嬲った。そうすると女は恍惚としながら、瞳だけはますますはっきりとしてくるのだった。そこには不思議な艶があった。
 女を打っている時、信夫は自信に潜む狂おしい後悔を忘れることができた。信夫は女を必要としていた。女はその欲望を満足させることが出来た。信夫は自分が穂積信夫であるということを捨てて、女を嬲り続けた。
 女の体を、もともとぬけるように白かったが、夥しい傷や痣によって、ますます肌の白さが際立った。女は艶を増し、美しくなっていった。そして信夫は、女が求めるものを与える事で、かつての女に対する贖罪が成就しているのだと思うようになった。
 女は信夫に、一郎の姿を写していた。だから、信夫にとって、その女は脅威ではなく、遠く隔たった存在としか感じられなかった。
 多田一郎が、この女の何を恐れて失踪したのか、信夫には検討もつかなかった。
 「やはり、多田一郎は、この女の妄念の産物でしかなかったのだ」
 信夫はその思いを強めていった。