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みやこたまち
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そののちのこと(鬼)

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第十章



 穂積信夫は目を開けた。黎明の世界が青白い燐光を発し、全ての窓が透徹な響きを伝えていた。室内も無論、蒼美の光彩に彩られており、調度類の一切が切り絵細工のように嵌め込まれて見えた。
 靄に浮かぶ庭を眺めると、しっとりと濡れた大気がゆっくりと流れていく。身を起こすと、胸に軽い痛みがあった。労わるように、レースの白が踊った。
 正面の三人がけの長いすの、規則的な上下動を繰り返す猫のような物体を包んでいたなだらかな形態は、信夫の心象風景の縁をなぞり、かすかな顫動を起こした。
 早朝をこよなく愛したかつての自分を、かえって昨夜の狂乱のあとで静かに思い返しているという因果が、なんらかの啓示のようにも感ぜられた。
 この静寂の裏には塗りこめられた血と、狂乱とがあるのだ。
 薄絹の天幕は、世の醜いものどもを、一時覆い隠すだけで、再び日が昇り、全てが暴かれるのは時間の問題でしかない。刻一刻、光は熱を帯び、精霊は形象の奥に引きこもる。
 目覚めは、平和な時を打ち破る号令に他ならない。それは、避けうべくもない潮流なのだった。

 信夫の前には、部分的に壊死しつつある庭が広がっている。壊死しながらも精気に満ちた靄の庭を見ると、信夫は己の力の限界を悟らざるをえない。彼方から水琴窟の音が忍び込む。朝露をためた葉先からしたたる雫の悪戯だろう。この庭の池、小川は、とっくに尽きていた。
 一滴、また一滴、雫は音を生む。音は頭に反響する。立ち枯れた向日葵にも、葉を落とした雑木にも、死んだ羊歯にも、それに共鳴する器官はない。脳の襞の一筋一筋を、一瞬駆け抜ける涼やかな玉は思い出に似て、一時、信夫の中の不快感を募らせた。

 今日最初の光の一筋が、切子硝子を通ってテーブルの上に射す。ノートの装丁が黄金色に光り、天蓋に鮮やかな菊の紋が浮かび上がる。じょじょにやってきた不快感が、ついに針を突き立てられたかのような痛みにまで、強まった。信夫は胸に手をやり、ゆっくりと呼吸をした。一瞬、息が詰まったが、手を当てていると楽になった。
 庭から目を逸らさずにカラーを直す。
 光りに晒された庭は、じょじょに精気を無くし、うなだれていった。ただ独りで迎えた何千回という朝の記憶の中で、今日ほど虚しく、また懐かしい朝は無かった。

 その日も信夫は、一日中庭の世話で終えようとしていた。
 容赦なく照りつける太陽の下で、草を抜いたり、苔の入れ替えをしたり、剪定をしたり、池をさらったり。することは山のようにあったし、ほかにすべきこともなかった。雨の気配は微塵もなく、秋の気配は更に無かった。もう、神無月も晦日を迎えようという時節だというのに、気温は連日30度を越えた。夕方、日の沈むのはしだいに早まり、夜は、それでも幾分かは凌ぎ易くはなったのだが、昼間の熱の冷めやらぬ間に再び太陽が昇るのである。業火に焼かれるがごとく、地上の世界は弱っていった。
 そんな作業を繰り返す信夫のもとへ、再びあの女が訪れたのは、あれから三日後の夕方だった。

 ゆうらりと涼しげに門口にたたずむ様子は、霊体のように背後の藍に溶けていた。黒の着物をきっちりと着て、髪を真っ直ぐに揃えた女は、以前よりも艶を増していた。信夫は女を書斎に招いた。
 女はソファーに座ると、腕をテーブルの上に置いた。何かの拍子に袖が捲れると、手首に組紐のような赤いものが見えた。信夫が目をこらすと、それは痣であることが分かった。信夫の視線に気づいた女は、微笑みながら、ゆっくりと袖を捲った。すると、痣と傷とで斑になった腕が露になった。女の目はその傷のひとつひとつを、いとおしげに見つめた。新しい瘡蓋の一つが裂け、血が滲んでいた。女は舌を伸ばして、ペロペロと舐め、薄笑いを浮かべた。
 「手当ての必要があるようだが」
 というかすれたような信夫の声には耳を貸さず、女は自分の腕の傷や痣に舌を当て始めた。肘のちょっと上あたりの痣は、腕と首を、きりきりと軋むほど折り曲げて、舌を精一杯伸ばして舐めた。女の腕は唾液にぬめり、ランプの明かりを反射した。腕そのものが発光しているようだった。
 信夫は、女を見ていた。女も、今ではまっすぐに背を伸ばし、信夫を見ている。
 「もう、すっかり分かりました」
 と女が平板に言った。
 「何の話です?」
 信夫は面食らってそう聞き返した。
 女は口元に薄笑いを浮かべ、露になっていた腕を神経質そうに覆った。
 「私を捨てて、そうして今度はこんな策略を用いるのですか?」
 女が言った。
 信夫には、全く思案の外の話だった。
 「私が、どんなむごいことをしたでしょう。あなた様が愛想を尽かすような何をしたというのでしょう。それさえはっきりとさせて下すったら、私も覚悟のしようがありましたものを」
 信夫の片方の眉がつりあがった。
 「それが、分れば許すと?」
 信夫の声は低く、そして強く響いた。女は陶然となっていた。
 「私に非があるというのは、あなたが、私を邪魔にする正当な理由を証拠立て下さらなければなりません。私がそれを認めて、それが私の中で不変であるということが納得できなくては、私はあなたを求め続けます。あなたが何処へ行こうと、私はあなたを待ち続けるでしょう。そうすることで、あなたは確実に私という人間の心の動きに縛られていなくてはならないのです。それにあなたは、私がいるから、こうして生きていられる、ということを忘れないでいなければなりません。私がいなかったら、あなたはあのまま、堕落していったに違いないのです。あなただって、私だって、二人でいなくては駄目なのです。あなたは、それを分かっていながら、ずるいことを考えたのでしょう。だから、黙って家を出たのでしょう。それでも、あのノートを残したのは、あなたの傲慢さに違いがありません。私があれを見つけることができたら、あなたは、あきらめて私という物を受け入れようとなさったのでしょう。私は、あなたと過ごす間に、随分利口になったのです。だから、あなたの考えを、知ることが出来たのです」
 「何の話です?」
 信夫は再び、そう聞き返した。