そののちのこと(鬼)
女の精神は、抑圧を取り除かれ、奔放に成長を始めた。その瞳に映る世界は、繊細な光りの点の集まりで、片時も休むことなく震えていた。穂積信夫の家屋敷は、女にとって実に好ましい対象だった。雑木林も苔も、中庭の梅の木も、息を飲むほどに美しい光景を織り成す大切な要素だった。
そんな中で、信夫の姿が、光りに紛れて見えなくなることが増えてきた。
そのことを信夫に告げると、信夫はだまって肯き、女を撫でるのだった。
女の個性は、信夫に、それまでの考えを一変させるほどの力を持っていた。信夫は、女の語る言葉、動作の一つ一つから目を離す事が出来ない。その全てが信夫の全存在に響いたからだ。女の生来の性質が、常人とは異なっている可能性を、予見することは出来なかった。しかし、信夫が始めて知った女が、そういう女だったのだとしたら、信夫が惹かれるのは、そうした女なのだ。
日ごとに異常な言動を見せ始めた女の口から語られる「穂積信夫」という名前は、女の両親の耳には、魔術師か、悪魔のように響いた。
「穂積信夫さんって、いうのよ、その人。とても温かくて、私を見守っててくれるの。私あの人に会わなかったら、世の中の素晴らしさなんて、何にも分かっていなかったと思うわ。今まで、いろんなことがあったけど、今、歩くことくらい素晴らしいことなんてないわ。とくに、河原の土手を歩くのが一番。私、ずっとあそこを歩いていられたら、もう、何もいらない。本当よ。穂積信夫さんっていうの。私の先生。私の神様」
両親は、娘の入院手続きをすると共に、穂積信夫なる人物について学校に問いあわせた。学校からの回答は「該当者不在」というものだった。よって、穂積信夫なる人格は、精神の裂け目に生じた妄想とされた。
女は眠りつづけた。眠りつづける女はいつか、夢とも現実ともつかない、こんな光景を見た。
月が青く、枯れ草が鉄色の光沢を帯びる。右手には冷たい水銀のような流れが女を飲み込もうと渦巻いている。
女は裸足で、重いからだを引きずるように走っている。信夫に会って以来伸ばし続けた髪が、月明かりに凍り付いている。
光りがぬめぬめと道伝いに這い回り、女の足を絡め取ろうと、草木がのたうっている。
女は恐怖と戦いながら、遠くにあの懐かしい八角形の塔を見つめている。暖かい光の中にいる独りの男を、自分は求めているのだということに気がつく。
長い道のりを走る。
モノクロームの点々が集まったり離れたりする。
不意に、男が足元で固まっているのに気がつく。それはまるで陶器のように艶やかで、冷たかった。
月の明かりが地面を青く染めている。
狂い咲きの梅が、腫瘍のように弾けている。
壁も、影も、空も青。
みな、冷たく凍り付いたまま、時間さえも進まない。
不意に、あの人の目が開く。しかしその途端、女は男を見失う。
障子が目の前にある。それは少しだけ開いていて、その向こうにも障子がある。
それも少し開いている。
その奥。さらに奥。まだ奥。ずっと奥まで障子が続いている。
青い光りに照らされて、梅の古木が映っている。何べんも何べんも映っている。
女は振り返る。
そちらにも同じ障子が続いている。女はその場にしゃがみこむ。そして頭を抱えて、地にひれ伏す。
あの人はいない。ここにあの人はいない。女は自分の手を見る。
それは蝋のように青い。
ふところのかみそりを取り出す。白い閃光が青を切り裂く。
青黒いものが溢れてくる。
それが地に滴り池となる。その中にあの人の姿が映る。
女は凍りついた瞳から涙をながし、その水面をかき抱く。
医者は女が昏睡し続ける原因を知らない。そして信夫は、女を失ったということがどういうことなのかを知り、激しい後悔に沈んでいた。
作品名:そののちのこと(鬼) 作家名:みやこたまち