108家族1
「名前、僕は多分、あの時、先生、キムじゃないです、ライムです、って声を上げたら良かったんだ」
間違った名前を、君の事だろうだなどと言ってすまなかったと言った。
顔を上げた。ライムは描いたみたな眉を寄せていた。
「君が謝る筋の事じゃないのでは?」
「そうかな。先生たちは絶対につっこめなかった筈だ。教頭が間違えたのだもの。年功序列なのだもの。面子っていうものがあるんだ。無邪気に声を上げられるなら生徒の側だった。僕は機転を持たなかった」
うくく、とライムは笑い出すのを堪えていた。
「そんな自覚的な無邪気があるのだろうか」
ライムは大概ににこにこした子だった。それでも声を上げる事は少なくて、ましてそれを堪えて鹿爪らしい声を出す所なんて初めてみた。そうだ。もともと大した会話をしてこなかったので、そんな機会は無かったのだ。他に、ライムの親しい友達というのも思い浮かばない。
容姿を除けば、ライムはあんまり目立つ子じゃない。
「どうせ期間限定の価値だし厚顔さなんだから今のうちに使っておかなくては」
「それもありだと思うけど」
「だろう」
「でも、大丈夫だよ。本当に。ありがとう、委員長。名前を間違えられるのには慣れていたんだ。妙に悪名が流れて学校で間違えられる事は稀だったから、ちょっとびっくりして、意固地になったんだ。大人げなかったと僕は思うよ」
ライムは鼻の先をちょいちょいと指先でひっかいた。
「僕はあのとき、何食わぬ顔で壇上に上がって、先生にこっそり、ライムっていうんです、って言って大人しく証書を受け取ればよかったのさ」
「でも、立ち上がらなかった気持ちもちょっとわかる。そんなに聞き分けがいいもんか」
「僕はそう見える?」
声に笑いを含ませて言うので僕は慌てた。視線を泳がせて、そういう事じゃないとしどろもどろになった。
「名前を間違えるのは失礼な事だよ。怒って当然だ」
「ありがとう。君こそ聞き分けのいい人だね」
まあ、そう気にしなさんなとライムはおじいちゃんみたいな口調になる。
「僕はまだマシなほうなんだ。これくらいで怒ってちゃあ、妹にもっと怒られる」
「なにが?」
「僕の妹の名前は蜂蜜の蜜と書いてシロップと読ませるんだ」
絶句した。二の句が継げない。
「さらに、弟は爽快の爽に葉っぱの葉で、ミント、と読ませる」
「それが市役所に受理されたのか!」
「されたとも。だから、ライムなんてまだまだ甘い。一応、そのように読めなくはない」
ライムはちらりと背後、カウンターの中で接客をしているお父さんを振り返った。
「あの人、見た目は犯罪者だけど、頭の中はお花畑なんだ」
身も蓋もない。
僕は俯いた。クッキーの形をしたテーブルの天板が目に入った。はっとした。
店内の壁紙にはキャンディポップが散っていて、床を見下ろせばチョコレート色をしており、窓枠を見ればスティックキャンディだ。カーテンは真っ白、繊細なレースもくっついている。
恐ろしい事だが、あの顔をしたお父さんの趣味でこのお菓子の家のお菓子屋さんができたのだろうか。確かめる勇気を僕は持たなかった。絶対そうだろうから。
ライムのため息が揺れる。なんて絵になるメランコリックだろう。こんな絵が描けたら一生絵描きで生きていけるだろうに。
「僕はでも、皮肉を言ってしまった」
「なに」
僕は店内から視線をライムに戻した。なんだかこのクラスメイトはいつも現実感から遊離している。単純に見た目がもたらす錯覚であるのだけれど、申し訳ない事に、その魔術的な造形の威力は絶大である。
ライムは中学一年生でバスケ部を辞めた。先輩二人がライムを巡って恋のさや当て繰り返し、とうとうとっくみあいの喧嘩を起こしたのだ。先輩二人は共に男子生徒であった。気まずくなっただろうライムは夏休みが始まる前に部活を辞めている。
「僕は証書を取りに行った時にね、校長と教頭に、立派な大人になりなさいと言われたんだ」
「うん」
「僕は、はいって、応えて、人の名前を間違えて謝りもしないような大人にはなりません、と言った」
「謝らなかったの!?」
「うん」
僕のほうが申し訳なくなるような話だ。
「僕は案外、腹を立てていたみたいだ。先生がたにも、父親にもね。わざわざ僕は、僕は怒っているんだぞ、と言ったんだ。折角のハレの日なのにね」
「当然じゃないのか」
「それなら、真っ向から主張したらいいじゃないか。僕はきっと薄ら笑いをしていた」
あまり気持ちのいいものじゃないので、そんな自分が情けなかったと言った。
ライムは湯気をたてている湯飲みをゆっくりと包んだ。案外に大きく骨張った男の手である。それでもきちんとバランスのとれた手だった。
「気にするなよ。いっそ、君がそう言ってくれて僕はさっぱりした」
ライムは息だけで笑う。
「そう言ってくれて、僕は気が楽になった。来てくれてありがとう」
「いいや、いや、これは僕の自己満足だ。ただ、ごめんって言いたかった」
ライムはゆっくりと瞬きをした。僕がそれをことさらゆっくりだと思っただけかもしれない。羽ばたきでも聞こえてきそうなくらい、まつげが長いのでそう見えるだけかもしれない。ライムが混血だって話は聞いたことがないけれど、薄茶色した光彩には細かく放射線状に緑色の筋がある。色素の薄い瞳は単色じゃなくて、繊細に色んな色を混じらせている。
「自己満足でも僕は気が楽になった」
目元が弛むと口角が上がる。シャープな男の輪郭と子どものふっくらとした頬の間で、微笑めばうすくえくぼができた。尖って白い犬歯が見えた。こりゃあまた。呆れるくらいに素直な顔をするんだと思った。その造作じゃなく、その表情を、僕はようやくちゃんと読み取れた気がした。
僕はいただいたココアと同じ温度であっためられていくような気持ちになった。なにか、彼の言葉に返したいと思って口を開いた瞬間、店のドアが蹴り開けられた。
僕はそちらを見てぎょっとした。
茶色い紙袋を頭からすっぽりと被った赤いランドセルの子がショーウィンドウの前に仁王立ちをしていた。
雨に濡れてへたった茶色い紙袋を小さな手が忌々しげに引きちぎった。
僕はぽかんと口を半開きにしていた。
サイドの髪を後頭部で束ね、残りを肩に流している。この髪は何でできているんだ。内側にたっぷりと水分を含んで清流みたいに光を反射している。
ライムに似ている横顔だ。でもライムよりも輪郭が優しい。女の子だった。頬が薄紅だ。唇が真っ赤だ。額から鼻へのラインはこれ以外にこれ以上完璧なラインを描く事があるのだろうか。
僕は知った。美少女の頬に流れる涙はクリスタルの輝きを持つ。
彼女はきらきらと薄茶色の目を濡らして、キリキリと眉をつり上げ、山賊のようなおじさんの顔を見上げていた。呆然としているらしいおじさんを怒鳴りつけた。
「卒業式にまでカヤマミツと呼ばれたわ! 素っ頓狂な名前付けてんじゃないわよ!」
絹のリボンみたいな声だ。
内容は、ああ、彼女が絶対にライムの妹であると保証するものだ。
「シロ! お客さんがいる。家に入れよ!」