108家族1
椅子から腰を浮かせたライムが声をかけなけりゃ、おじさんと女の子はずっと微動だにしなかっただろう。はっと、女の子が初めて僕に気がついたみたいだった。
怖いくらいまっすぐに人の目を見る。僕は慌てて頭を下げた。
「おじゃま、しています」
お兄さんと同じ制服を着ていた僕に彼女が何を思ったかしれない。彼女はかあっと頬を燃やして涙の痕をぬぐった。ちゃんとぺこりとお辞儀をしてすみません、と言った。
制服のスカートを翻してさっきライムの出てきた扉の向こうに消えていった。
「騒がしくてごめん」
ライムが謝った。僕はなんでもない、と応えた。
「妹さん、だよね?」
基本的な顔の作りがライムと同じなのだ。ライムは重々しく頷いた。
「私立? 制服着てた」
「うん。スクールバスがあるトコに通ってる。下手に通学路を使うとイタズラされるから」
「え」
「僕よりひどい。女の子であるだけ余計に」
四ヶ月に一回ひどい目に遭っているライムが言う、比較級は僕の想像の範疇外である。
「ひょっとして、あの紙袋も?」
聞いていいのだろうかと思いながら好奇心が勝った。僕も大概に慎みが無い。
「妹が自分で被っている。外に出る時はいつも」
いじめられるんじゃないかと思った。ライムは僕の顔色を正確に読む。
「あれを被る事を思いつくまで、オーブンの中に顔を突っ込んでいきそうになるから困ったよ」
変質者をほいほい引き込んでしまうのは顔のせいだと彼女が気がついた頃だったそうだ。
美少女も美少年も、こうも人目をひけば大変だ。至って目立つ所の無い僕には思いをはせることもはばかられる。でもなんであろうか。
たとえ彼女が紙袋を被っていても、なんだか被害は0にはならなかった気がする。ライムも、彼女もそうであるが、妙になんといえばいいのだろうか、誘蛾灯の紫色の光みたいな空気がまつわりついている。
ふらふらしたくなる。まったくなんて事だろう。
「大変そうだ」
僕がぽつんと言うと、ライムはぞっとするような凄みのある視線をくれた。
「なんだよ!」
「妹に手ぇ出したら承知しないよ。だてにテコンドーを修めた訳じゃない」
「しないよ! 大体まだ小学生じゃないか!」
「今日卒業してきたからもうじき中学生」
「それにしたって!」
悪いが僕は未だ色恋沙汰を知らない。恋愛の才能は皆無だろうと思われる。
「ちなみに、僕に手を出しても再起不能にするからね」
「それこそするか!」
そこだけは全力で否定させていただきたい。いくら、男女を問わず惚れさせてしまう子だったとしても、男に走るくらいなら一生童貞でも構わない。
「本当だろうね」
「真顔で問わないでいただきたい」
鳥肌をたてた僕を、ライムは一応信頼してくれたみたいだ。幸いである。
「それにしても、テコンドーって、穏やかじゃないね」
「これくらいしか身を守る術がないと思えば有段者にもなるってものです」
「しかも有段者って」
なんだか、餌食になる事に、彼は相当の鬱憤を溜めているような気がする。護身術ではおさまらない事が彼の中にはあるのだろう。
あまり、この事に突っ込むのも難である。ようやくちょっと、この子と仲良くなれるような気がしたので、このあたりが引き時だろうと思う。
「とにかく、君をどうにかしようだなんて金輪際思わないので安心してよ」
ライムはじいっと僕の目を見た。おっそろしい目であったが、僕はぎん、と瞼を開けていた。ライムに対してやましいことは無いので、逸らしたら負けだと思った。
そうしてどれだけにらみ合っていたのか知れないけれど、僕はライムのお眼鏡にかなったらしい。
オーケーと、彼は言って手のひらを上げた。降参のポーズだ。緊張が二人して解ける。ごめんね、とライムは言った。僕は信じてもらえたようなので息を吐く。
ちょっと冷めてしまったココアを飲み干して、突然訪ねた事を詫びる。
「ココア、美味しかった」
「ありがとう。もしよかったら今度はお菓子やケーキも食べにきてよ」
ライムがドアを開けてくれた。僕は礼を言うついでに、ふと思いついて言ってみた。
「どうして放課後教室に戻らなかったの?」
ライムは、悪魔なんじゃないかと思うような顔をした。どうやら笑ったらしい。
「教室なんか帰ったら第二といわずにボタンを残らずむしられるに決まってる」
彼は相当に正直な性質であるらしい。そして、他の男が言ったら噴飯物の台詞でさえなにも冗談に聞こえないくらいに言えてしまう男であった。
僕は反論を持たない。
四月からも同級生であるだろう彼が、案外におもしろい子であるので、苦笑した。
同時に、卒業式の悲しみや寂しさが薄れているのも感じたよ。
県立の農業高校、彼も通うのだろうと思えば、今からなにか、わくわくとした。