珈琲日和 その20
そう言うだけで精一杯でした。僕は踵を返すと全力で墓地の道を走っていきました。何としても、彼女に会わなければいけない。それだけを思ったのです。樹木に守られた墓地の出口はお盆も近かったので来る時よりも人が多くなっており、何台かの車の出入りもありました。そこをすり抜け、下り坂になった道を早足で下り降りた途端、誰かに呼び止められたのです。どうやらずっと僕を呼んでいたらしいのですが、僕は走るのに夢中で気付きませんでした。樹木の影が切れるか切れないか辺りでようやく立ち止まった僕に駆け寄ってきたのは、彼女でした。
何処から追ってきたのでしょう。彼女は激しく肩で息をしながら、止めどなく滴ってくる汗を拭いながら笑って口を開きました。彼女がそんなに爽やかに笑ったのは久しぶりでした。
「ー 相 変わら ず 足が、 速いん だから」
揺れる気持ちいい木陰に撫でられながら、汗だくになって笑ってそんな事を言う彼女は綺麗でした。彼女は僕がここに来る事を何となく予測していたようです。僕の母親の墓地がここである事は知っていたのですが、墓自体が何処なのかがわからなかったので墓地の出入り口で待っていたそうです。もし、ここで会えなければ、諦めようと思っていたのだと。
「ー吃驚 した だって、あなた、血相変えて、走り抜けていくん だもの」
「・・・ごめん」
「いいの。だって、自分勝手な事を言ったのは私なんだから。わかっていたわ。迷いもした。今更そんな事をしてもって悩みもした。でも、なんだかそれが報われなかったママにしてあげられる供養な気がして。ごめんね。あなたの気持ちを踏み躙る事だってわかってる。でも、私はあなたに疲れたわけじゃない。あなたが嫌になったわけじゃないの。それだけはわかって」
彼女は汗を拭き拭き、泣きそうな顔で一生懸命それだけの事を口にしました。正直、彼女と付き合ってこんなに感情的な言葉を口にする彼女を見るのは本当に稀でした。それにいつもは感情が昂り過ぎて怒りにまで変換してしまうので、どちらかと言うと怒っていると感じる事の方が多かったのです。それは、彼女の性格も関係してくるのでしょうが、それ以前に誰かに自分の気持ちを伝える術を知らない不器用さも手伝っているのだろうと思っていましたが、理解しきれない部分も多かったのは事実でした。彼女は本当に純粋で、一生懸命でした。僕はだから彼女が好きなのに。
「わかってる。僕こそ、ごめん。君が僕を捨てていくと思って、怖くなったんだ。だから」
「・・・うん」
「本当は、笑って行っておいでって言えれば良かった。でも、きっと僕はそんなに器が大きくなかったんだ。君とまた離れてしまうのが、ただ悲しくて腹立たしかった」
「うん」うんと頻りに頷きながらも彼女は悲しそうに涙を零し始めました。彼女の目の下から頬に伝う涙の通り道のような傷が、彼女の悲しみや苦しみ、途方に暮れた思いを物語っています。けれど、彼女は決心したのです。彼女の幸薄かった母親に彼女を通して、色んな体験をさせてやろうと。彼女自身が母親の夢を叶えてやろうと。それはとても素晴らしい事でした。僕はそんな彼女を応援したいと、彼女と離れたくないという想いと同じくらい強く思っていました。彼女は何度もごめんなさいと口にしました。違う。そんな言葉を聞きたい訳じゃないんだ。彼女に謝って欲しい訳じゃない。僕は、僕は・・・
僕はなにを言っていいのか言葉に迷った末、泣いている彼女を強く抱きしめました。
「また 会える!」
確か、いつか遥か昔、こうやって僕が彼女に抱きしめられたなとぼんやり思い出しました。あの時は、独りぼっちになる事が怖くて寂しくて、ただそれだけだった。けれど、今は違う。そう思いたいし、彼女も僕もあの時とは違う。自分で人生を切り開いて行ける大人なんだから。想いがあれば必ず会える。途切れる事なんてない。大丈夫。僕の胸の中で頷く彼女の背を、僕はいつまでもいつまでも撫でていました。
紅葉が美しくなってきた頃、店に一枚の葉書が届きました。
裏には美しいオーロラの写真があります。どうやら、彼女は今フィンランド辺りのヨーロッパにいるようでした。表には簡単な報告がありましたが、彼女らしいぶっきらぼうの短い文章に少し笑ってしまいました。それにしても、見事なオーロラです。
ニヤニヤとそれを眺めていた僕を無表情で眺めていた渡部さんが話しかけてきました。
「なんだったら、店を休んで会いに行ってくりゃいいだろ」
「あ、いい考えですね。でも、そんなすぐに会いに行ったりして、辛抱がないと思われませんかね」
「関係ないだろ。あいつは結構勝手なんだから、お前だって勝手にしたっていいだろ」
「確かにそうなんですけど」
「恋人に会いに行くのに、理由なんていらないだろ」
渡部さんがそう言い終わるか言い終わらないかうちに、携帯電話がけたたましく鳴り響きました。峰子さんの臨月が近付いてきているので、気付かなかった事のないように一番大きくて一番騒がしい着信音にしているのだとか。渡部さんが慌てて電話に出ました。峰子さんにつきっきりのお母様からだったようで、よく通る声がここまで聞こえてきます。お母様もかなり慌てているようで、渡部さんが落ち着けと何度も言っています。峰子さんの臨月が近付くにつれ、渡部さんとお母様は子どもの事について自然と色々話せるようになったそうです。子は鎹なんて、上手い事を言ったものです。とにもかくにも良かったです。渡部さんは急いで電話を切ると、慌ただしく立ち上がりました。
「陣痛が始まった!もうすぐ産まれるぞっ!タクシーを呼んでくれ!」
僕は急いでタクシーを呼びました。すぐ近くに馴染みのタクシー会社があったので、タクシーはものの3分もかからず駆けつけてくれ、渡部さんは病院へと向かいました。僕はそれを見送って、どうか安産でありますようにと祈りました。入れ違いに健三郎先生がいらっしゃいました。
「いらっしゃいませ。お久しぶりです」
ぼくがそう言いながら、お水をお出しすると、先生はいつもの席に座りながらまじまじと僕の顔を凝視してきました。なにかついてますかと僕が聞くと、先生はにやっと笑いました。なんだか、その笑い方が小太郎とダブって見えて、僕は目を瞑って軽く首を振りました。
「しばらく見ない間に、随分と味が出たように見える。色んなものに気付いたんだな」
先生はそう言って鼻毛を毟ると灰皿に捨てました。僕は何と答えていいか考え倦ねて「これからも、もっと色々と気付いていくつもりです」と笑って返しました。先生は豪快に笑い出しました。
「そうだな。そうして初めて人生は実り豊なものとなる!」