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珈琲日和 その20

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 彼女は彼女なりに考えて悩んだ筈。僕と一緒にいて彼女は以前のように疲れてはいなかった筈。でもわからない。もしかしたら。考えれば考える程、思考は土壺に嵌っていきます。わからない。わからない。ふと、足下を焦げ茶色をした蟻のように小さな蜘蛛が僕の靴を意識しながら通り過ぎていきました。・・・小太郎。
 いなくなってしまった小太郎の事が再び浮かびました。そして、小太郎に彼女が重なりました。そして、今まで付き合った女性達にも離婚を突き付けられた元妻にも重なりました。そう言えば皆、ある日いきなり別れを告げてくるか、いなくなってしまう事が多かったのです。その度に、僕はどうしていいのかわからなくなり、そうこうしている間に捨てられてしまうのです。どうして皆、唐突に僕を1人残して、いなくなってしまうんだ。悲しくなってきました。こんなに悲しいのは何十年振りだったのでしょうか。遥か子どもの頃以来だったような気もします。汗とも涙とも判別のつかないものが頬を伝って流れてきました。なにしろ焼け付くような暑さの上にサウナにいるような気温です。判別なんてつくわけがありません。僕は手の甲で乱暴にそれを擦りました。けれど、その液体は次々と垂れてきます。それどころか、鼻水まで出きました。やれやれ。情けない事だな。僕はむきになって擦りました。酸性の液体が流れた所が日に当たってヒリヒリと痛みを帯びてきた時でした。滲んだ視界の隅で何かが動いたのです。黒ずんだ墓石の苔生した深い常磐色の上で何か黒いものが・・・!
「こ、小太郎・・・!?」
 思わず名前を呼んだその黒いものは、確かに蜘蛛ではありました。そして、蠅取り蜘蛛でもありました。人懐っこそうな動きで、じっとこちらを見つめています。けれど、残念な事にはその蜘蛛は小太郎よりも小さく、僕の側にいつものようにどうしたのと言わんばかりに寄ってきはしなかったのです。似てはいましたが、小太郎ではありませんでした。残念に思いながら、けれど、さっきまでの絶望的な悲しさからひょんな感じに抜け出せたような気分になれた事に気付きました。
 その蜘蛛は、しばらく僕を見つめていましたが、それに飽きると背を向けてひと跳ねし、たちまち見えなくなってしまいました。その様子を見送りながら、僕は小太郎がきっと何処かで元気にああして生きているだろうなと思いました。
 僕は立ち上がりました。そして、もう一回ベトベトの顔を両手で揉むようにして拭うと、すぐ近くにあった筈の水道まで歩いていきました。そこで顔を洗い、ついでに水を飲むと、いくらかは顔の痛みは気にならなくなりました。
 今日は雲すらもない晴天です。青過ぎて、白くさえ見えてくる空を仰いでポケットに手を突っ込みました。微かな鈴の音がして彼女から預かった鍵の感触にすぐ行き当たりました。彼女はもう行ってしまっただろうか。
 最後の最後まで悲しい思いをさせてしまった。もっと前向きに背中を押してやれば良かった。店を出る直後の彼女の泣きそうな顔を思い出して、胸が苦しくなりました。彼女を悲しませたい訳じゃなかったんだ。もう会えないのだろうか。まだ間に合うかもしれない。その何方にも押されて、戸惑いながらも墓地の道を足早に帰り始めました。
 そう言えば、小太郎が別れも告げずに去ったのは、もう会えなくなるなんて最初から思っていなかったからかもしれません。いつでも会える。又会える。きっと。そう思ったから敢えてサヨナラの儀式めいた事をせずに姿を眩ましたのかもしれません。そう考えて行くと、彼女も又別れの台詞を口にはしていなかった。この前も、随分前も。僕の勝手な思い込みかもしれないけれど、それはもしかして別れる気はなかったと言う事になりはしまいだろうか? だから、何年も経ってからわざわざピアスを取りにきたのではないのか。でも、だったらどうしてその時にそう言わなかったのだろう。僕には何も伝わってはいない。口にしなければ、言葉に現さなければ、相手には伝わらないのに。そう憤りを感じはしましたが、ふと、でもあの時の彼女は心底疲れ果てていた事を思い出したのです。だから思い至らなかったのかもしれない。とりあえず、別れだのは置いといて休みたい。心に休息を取らせたい。空白の時間を求めていたとしたら。ひたすらそれしか浮かんでいなかったとしたら。口下手な彼女の事なら充分有り得る。変な所で律儀な彼女は、都合のいい自分の理由に、僕に図々しくも待ってとも言えなかったのだろう。言おうなんて念頭にもなかったのかもしれないけれど。僕にとっては全然図々しくなんてないのに。きっと。それにしても、彼女に本当のところはどうだったのなんて、こんな事聞いても怒るだけで答えてなんてくれないだろうなと、僕は1人で苦笑いすると同時に、本当に彼女の気持ちなんて何も考えずに酷い事を言ったもんだと心底後悔しました。今からでも間に合うだろうか。いや。間に合って欲しい。最後かもしれないけれど、どうにか取り繕いたい。そんな強い気持ちが湧いてきて、頼りなく不安げで覚束なかった僕の足取りが力強く確かなものになっていきました。
 その途中、向かう時には気付かなかったのですが、柄杓と桶が並べられた小さな休憩所があるのを見つけました。その休憩所の前には随分と品揃えの古い自動販売機が設置されていました。喉が乾いてきた僕は、迷わずそこで100%の林檎ジュースを買いました。一気に飲み干そうとした瞬間、ふとさっきの墓前にいた蜘蛛の事が浮かんできたので、少しだけ残して墓に引き返しました。
 墓は先程と同じように沈黙を守っていて、さっきの蜘蛛の影も形もありません。僕は適当な落ち葉を見つけて、その窪んだ所にジュースを垂らして墓前に置いておきました。こうすれば、きっと蜘蛛達も飲めるだろう。
 立ち上がりかけた時、ちょこちょこっと大きな黒い蜘蛛が踊りで来て夢中でジュースに飛びつきました。更にそれを追い掛けるように小さな蜘蛛達が数匹出てきて、習うようにジュースに群がったのです。もしかしたら、さっき見た蜘蛛も混じっていたのかもしれませんが、とにかく、真っ先に飛び出してきた食いしん坊の大きな真っ黒な蜘蛛は紛う事無き小太郎だったのです。
 視界がまた滲んできました。後の小さな蜘蛛達は子ども達でしょうか? 小太郎はこんな所で家族を作っていたのでした。
 小太郎はスクワットの状態で涙ぐむ僕には全く構わず、夢中でジュースを飲むと丁寧に口を拭って、子ども達を引き連れて立ち去って行きました。去り際に一瞬、僕を見上げてにやっと笑ったように見えたのは気のせいだったのでしょうか。・・・良かった。僕は小太郎の無事と元気な姿を見れて心底安心しました。良かった。本当に良かった。小太郎は、守られた中でではなく、自ら出て行ったのです。自分の成す事をして、精一杯生を全うしようとしているのだと思いました。
「小太郎、ありがとう」
作品名:珈琲日和 その20 作家名:ぬゑ