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珈琲日和 その20

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 僕は腹立たしくなりました。彼女の勝手な言い分に。気付くと、さっきからずっと洗い続けているソーサーのしつこい滲み汚れが消えていました。近々漂白しておとさなければと思っていた滲みが、僕の動揺を露にしたかのようなスポンジを使った同じ動作の繰り返しで磨き取られたらしいのです。彼女はそこまでを一気に言うと、口をへの字に曲げたまま伏し目がちに下を向いたまま黙ってロワイヤルを一口飲みました。店内にはお客様はいらっしゃらず、僕が宛てどなく繰り返している洗い物の虚しい水音が、控えめなピアノの音と絡み合って不安げにそこらに漂っているようでした。こんな時にお気に入りのアリアを聞く羽目になるなんて。僕は悲しみや腹立たしさや虚しさ、そんな様々な感情に一気に支配されてしまい自分でも何を考えているのか何だかわからなくなってしまいました。
「・・・君は勝手だな」
 暫くして、ようやく喉から絞り出された僕の声は我ながら酷く震えて、怒りが隅々まで浸透された低い脅すような声でした。自分でもそんな声が出てくるとは思っていなかったので些か吃驚しながら、水道の蛇口を捻って長い洗い物を終えました。彼女が僕の言葉にふと顔を上げました。そのアーモンド型の子どもの頃から変わらない目の中には不安げな色が確かにあったように見えました。
「・・・いつだって、ちっとも僕の気持ちなんて考えない」
 そんな事を言いたい訳ではない。彼女の母親に対しての優しさの決心を快く応援して送り出してやりたいという思いと、どうしていつもいつも突然にそんな事を言い出すんだと思う憤りと、寂しさと。彼女の想いへの不信と。そうではないとの否定と。そう言うものだと納得しようとしている自分と。とりあえず、もうグチャグチャに入り交じって大変な事態でした。これ以上好き勝手に口を開くがままに任せていると、もっと言ってしまいそうだったので、自分では口を閉じたつもりだったのですが、無意識に、悪いけどもう行ってくれないかと一番辛辣な言葉を投げつけてしまったのです。
「・・・・・ごめんなさい」
 彼女は今にも泣き出しそうな顔をして、そう呟くと一回頭を下げて出て行ってしまいました。
 あーぁ 何て事を言ったんだーー 僕はーー・・・
 後悔と自責の念が一遍に湧いてきました。彼女の母親は、亡くなるまで彼女に対しての対応が、あまり良くなかったらしい事を聞いてはいたのですが、そんな母親でも彼女はやっぱり気にしていて、むしろすごく好きだったんだと言葉の端々に見えて、それをわかっていたからだから親孝行を認めてあげたかったのに、自分の我が侭が優先してあんな言葉を吐いてしまった。僕は結局ダメな男だ。
 彼女は突飛な事をいきなりしたりするので、普通より驚く事はこれまでも何度かあったけれど。こんな形で彼女と別れる事になるなんて思ってもいなかった。しかもこんな釈然としない形のままで。
 僕はカウンターに残された鈴のついた鍵をぼんやり見遣った。僕は彼女とこんな事になりたかった訳じゃないのに。きっともっと、他の形になってなれる言葉を探す事だってできた筈なのに。
 近くの木にでもとまったのでしょうか。油蝉の声が木霊するように聞こえてきました。聞き慣れたその声は、何故か侘しく感じられました。僕はどうしたいのだろうかと。


 眩しい木漏れ日に目を細めながら、僕は屋根のように覆い被さるような鮮やかな緑のトンネルを歩いていきます。
 まだ午前中の早い時間だというのに、隙間を見つけては光り輝く8月の暑さは容赦を知りません。最近、頭皮が気になってきたので被ってきた鍔の短い麦わら帽子は意味がないようで、紫外線は軽々と突き抜けて、早くも額からは汗が垂れてきます。それを拭いながら、ゆっくりと坂を登ると、不意に視界が開けて広大な墓地が姿を現します。
 見渡す限り、等間隔に整列した墓石で埋め尽くされた墓地の真ん中の辛うじて車一台が通れる木陰等逃げ場のない殺風景な白い道を、僕はひたすらゆっくりと歩いていきます。両脇に数字とアルファベットの区画を現す簡単な配列が記されたL時型の白い標識が等間隔で刺さって、白い小石が敷き詰められた何処までも真っ直ぐな道は攻撃的な日差しの反射を受けて、僕の目に肌に突き刺さってきます。サングラスを持ってくれば良かったと、花束を持っていない方の手で目を庇うようにして何個目かの標識を認めて小道を曲がりました。
 母の形ばかりの墓は、小道の並びの一番端っこの小さなスペースにひっそりとありました。一番端と言う事で、辛うじて木陰が少し被っており、古びて黒ずんだ墓石には気持ちよく苔生してはいるのですが、とっくに絶えてしまった母の親族だか、家族だかが眠っているだけで、母自体の遺骸はここにはありませんでした。
 母は、僕が幼い頃、僕を児童施設に連れて行こうとする車を追って交通事故で亡くなっており、その遺体は誰にも引き取られる事もなく、ひっそりと無縁仏として処理されたのです。幼かった僕は随分あとになってからその事を知り、母の遺骨を探したのですが、もう他の無縁仏の中に紛れて判別すら出来なくなっていました。せめてもの遺品にと、母が大切にしていたがま口をこの墓に埋葬したのですが、本当に形だけのものでした。けれど、他の母の事を偲びに来る所もないので、何となくここに来てしまうのです。
 墓に入っている他の親族や家族の事はわかりません。僕が子どもの時には既に母と二人きりだったのです。母も自分の事を多くは語ってはくれませんでした。なので、毎度の事ながら、ここに母はいないのにおかしな気分だと思ってしまいます。
 とりあえず、僕は持ってきた花束を墓前に供えました。それから、何とはなしに端っこの辛うじて日陰になっている苔生した石に腰掛けて、彼女の事を考えていました。あれから、一週間。音沙汰もない。もう出発したのだろうか。
「・・・母ちゃん。・・・彼女が、旅立つそうだ。僕は、どうしたらいいんだろう?」
 無意識にそんな独り言にも呟きにも似た問いが、何処にいるとも知れない母に向かって発せられたのは、余程誰かに助言をして貰いたかったからかもしれません。実質的には母が埋葬されていないので、いつもここに来るのは何年かに一回あるかないかで、こうして墓前で留まる事も初めてでした。こんな風に助けを求めた所で、実際、母が聞いている訳はなく、答えてくれる訳でもないのはわかりきっているのです。答えが己の中にあるのもわかっているのですが、なんだか、色んな感情が入り乱れて見えなくなっている上に、彼女はすぐにでも去ってしまう状況で、時間もないのです。
 僕は・・・僕は、どうしたらいいのだろう?
 彼女と再会してからの事が走馬灯のように脳裏を駆け巡りました。そして、以前の彼女との別れも。僕は別れても、何処かで彼女を待っていたのだろうかとか。彼女はどんな気持ちで僕の事を想っているのだろうかとか。そう言えば、彼女が僕をどう想っているかだなんて考えた事もなかったな。僕は深い溜め息をつきながら汗ばんだ顔を両手で包み、頭を垂れました。そんな事も考えた事がなかったなんて、僕はどこまで彼女の気持ちを考えていなかったんだろうかと、情けなくなってきました。
作品名:珈琲日和 その20 作家名:ぬゑ