珈琲日和 その20
渡部さんのお母様は涼しい顔をしてそれだけを一気に言うと、ふいっと後ろを向いてカウンター席に座り直しました。いつの間にか泣いていた子どもでさえ、吃驚して泣き止んでいます。呆然と立っていた母親達は唇を噛み締めながら、渡部さんのお母様を睨み、子ども達にうっとおしそうに帰るわよと言い捨て、店を出ていきました。結局、最後まで壊したランプに対しても、峰子さんに対しても謝罪はないままでした。やれやれ。情けない世の中になったものだと、子ども達が食べ散らかしたテーブルを拭いて、元通りにセッティングしながら僕は溜め息をつきました。
渡部さんのお母様は、まだ憤慨収まらないのか、先程のように色々と話はせず、暫くブレンドを啜っていましたが、ふと先にホテルに帰ると言い出しました。
「悪いけど。気分が悪くなったの。豊ちゃん、峰子さん・・・ごめんなさいね」
そう言って、お母様は逃げるようにお帰りになりました。残された、渡部さんは安堵とも落胆ともとれる大きな溜め息を一つつきました。
「やれやれだ。母は孫が余程楽しみらしい。以前はむしろ子ども嫌いなように俺には見えたし、あんなお喋りでもなかったし、あんな事で気が立つような短気な人でもなかったんだが」
「・・・でも、お母様は正しい事を言っているわ」
それまで、お腹を撫でながら神妙な顔で黙って聞いていた峰子さんは、やっと口を開けました。
「まぁ、そりゃあそうだろ。嫁と孫にはいい顔したいんだ」渡部さんは何処までも皮肉口調です。
「そんな言い方しなくてもいいじゃない。例え、昔あなたに対して酷い事をしたとしても、やり直す事は出来る。何度でも機会なんてあるのよ。私はそうやって自分なりに努力するお母様は好きだわ」
「そりゃあ、君の好きにすりゃいいさ。俺はあの人の事を好きでも嫌いでもない。苦手なだけだ」
「子どもみたいね」
「何とでも言ってくれ」
妊娠の影響なのか、珍しく峰子さんが食ってかかって険悪になりそうな二人にまぁまぁと割って入りながら、僕は少し羨ましくも思いました。母親の事でそんな風に揉められるなんて。
「お母様がお孫さんが嬉しいのは当たり前ですよ。誰だってそういうものだと聞きますよ。新しい家族が増えるから喜ぶ。それだけでいいじゃないですか。幸せな事なんですから。喧嘩なんてもったいないですよ。それにしても、先程のママさんグループに対してのお母様はスカッとしましたねぇ。僕も苛々してはいたものの、なかなか言えず、僕の代わりに言って頂いて申し訳なかったです。なんだか僕は、お客様に特に女性に対して何か強く言うのが苦手で」
「だから、いつも尻に敷かれているんだな。そういう人間には気が強い人間が集まってくるらしいが本当だったんだな。ここの常連も一癖も二癖もありそうな人が多いからな。人柄かな?」
渡部さんがいつものように笑って突っ込んできました。良かった。
「ほんとよ。私も子どもが産まれたら、子どもがいるからって何でも許されるって勘違いしているさっきの母親達みたいにならないように気をつけなきゃ。」
「峰子なら大丈夫だろう。何しろ俺が見込んだ女性だからな」
自信満々の渡部さん。ご馳走様でした。
「暫く、留守にするわ」
お盆ももう少しで終わるだろう時期に、久しぶりに来た彼女が突如そう切り出してきました。
「しばらくって・・・どのくらい?」
ちょうど、昼間のピーク時も過ぎたので、僕は溜まった洗い物を片付けながら聞き返しました。
「わからない。貯金が続く限りとは考えているわ」
「そう。何処に行くの?」
「それもわからない。でも、国内でも海外でも行きたい所を転々とするつもり」
その言葉に思わず顔を上げた僕には気付かず、彼女はいつも通り、特に表情もなくそう言いながら、飲みかけのカップをソーサーの上に置きました。
「海外もって・・・世界を放浪でもするつもりなの?」
「うーん・・取りように寄ってはそうとも言えるけど、私はいつも外国を旅する事を夢見ていたのに、何処にも行けずに死んでしまった母の代わりに、母が行けなかった所に行って、見れなかったものを見たいの。今のうちに。それだけ」
彼女の母親は彼女が子どもの頃、不幸な事故で亡くなっていました。つい先日、お墓参りに行くと言っていたので、もしかしたらその時にふと思ったのかもしれません。
「・・・そっか。そうすれば、お母さんも君を通して色々見れるという訳だね」
「そう。きっと。ママは、今でも私の側にいて心配してそうな気がするから」
そう言いながら、彼女は目を細めて何処か遠くに視線を投げながら優しげに微笑みました。そんな顔を見てしまったら 僕はなにも言えません。引き止める事なんて出来る蓮もなく、ただ、わかったと口にするだけで精一杯でした。彼女は握りこぶしを僕に差し出してきました。
「うちの鍵。あなたが預かっておいて」
「家の中はある程度片付けてあるから、出来たら時々風通しをしてくれると嬉しい。税金なんかは口座から引き落とされるようにしたわ。もし、私が何らかの事情で帰って来れなくなったら、この不動産屋に電話して。万が一の時の為に後処理を委任してあるから」
そう言いながら彼女は僕の目の前で握った拳を広げました。中には小さな鈴の根付けがついたアンティーク感漂う飴色の鍵と折り畳んだ紙切れが乗っかっていました。紙切れの中には彼女に何かあった時に後処理をしてくれる不動産屋の番号が書かれているのでしょう。彼女の家はお祖母さんからの持ち家でした。僕が彼女と再会する前は、お祖母さんが1人で住んでいて、彼女自身は都心の方に住んでいました。お祖母さんが亡くなった知らせを受けた時、同時にお祖母さんが家や遺産の受取人を彼女にという遺言状を書いていた事を知ったそうです。けれど、築年数がかなり経っており、危険な為取り壊した方がいいと薦められたらしいのですが、彼女は頑として勿体無いからとその家に移り住む事にしました。そして、丁度この街に戻ってきた時に僕と再会したのでした。
「帰って来れなくなったらってどういう・・・」
僕は彼女の言っている意味がわからなかったので、そう質問しましたが彼女はそれを遮りました。
「もし、あなたに他の人が出来たら、鍵は家の玄関の脇の植木鉢の下にでも放っといて。待つ待たないはあなたの自由よ。私は何かを約束はできない。いつ帰ってくるかもわからない。生きて帰ってくるかもわからない。だから、別に誰かと一緒になっても構わないわ」