珈琲日和 その20
渡部さんの奥さん、峰子さんは現在妊娠8週目。かなりお腹が目立ってきていました。渡部さん夫婦にとっては初めての出産。最近は病院の休憩時間、ランチがてら来店される度に、眉間に皺を寄せた難しい顔をして、出産の本や育児書を熱心に読み込む姿が見られ微笑ましい限りです。
「初めまして。渡部の母です。いつも息子がお世話になっております」
艶やかな口紅を塗った蕾のような唇を淀みなく動かしながら、深々とお辞儀をして、その、年配ではあるでしょうけれど、どこか年齢不詳な雰囲気を漂わせた女性はゆったりと椅子に腰掛けました。その隣にはお腹が目立ってきた峰子さん。少し離れた扉の近くには、苦虫を噛み潰したような表情を張り付かせた渡部さんが、眉間の皺も深く苛立ったような感じで突っ立っていました。
峰子さんは居合わせた常連さんと話出していましたが、渡部さんのお母様がいち早く、そんな彼に気付き、綺麗に手入れが行き届いた手を優しげに振って手招きました。
「どうしたの? 豊ちゃん。そんな所に立ってないで、こっちにいらっしゃいな」
渡部さんの顔が増々渋くなりました。どうやら、渡部さんはお母様があまり得意ではないのだなと容易に想像ができます。以前に、亡くなったお父様に関しても、あまり交流がなく厳しい厳格なお父様だったと伺っています。お母様は華やか好きで、社交的であまり家庭の事はしないのだとも。だからでしょうか。渡部さんのお母様は若々しく、黒目がちでとても華やかな美人でした。
渡部さんがいつものカフェモカをと注文すると、まぁ、豊ちゃんはまだ甘いものが好きなのねと頓狂な声を上げました。渡部さんは今までで見た中で一番不愉快そうに、悪いかと答えました。
「俺の勝手だ。母さんにとやかく言われる筋合い等ない」
「そうは言ってもあなた、糖尿病には気をつけなきゃダメよ。あなたのお父さんだって危なかったんだから。峰子さん、峰子さんからもちゃんと気をつけてあげて頂戴」
いきなり引き込まれた峰子さんは訳がわからず、はぁと曖昧な返事をしている。
「うるさいな。母さんは、父さんに気遣ってきたのか? 今まで何もしてこなかったじゃないか。それなのに今更なに言っているんだ。今まで通り放っといて・・・」
そう切り捨てるように言い放った渡部さんを制するように、峰子さんが割って入ってきた。
「ありがとうございます。心配して頂いて。大丈夫です。私もそれは気にしていましたから。」
「そうよね。良かったわ。峰子さんが理解のある人で。ほらね、豊ちゃん」
峰子さんに目配せで黙らされた渡部さんは、言いたい事も言えずに、不愉快そうな顔を更に歪めてふんっと横を向いて煙草に火を点けようとしました。おや? 僕が首を傾げたのと、お母様が手を伸ばしたのとは恐らく同時だったと思います。渡部さんは煙草を召される方ではなかった筈です。
お母様は素早く渡部さんの手から煙草とライターを取り上げると、厳しい顔つきになりました。
「いい加減になさい。峰子さんのお腹の中には赤ちゃんがいるのよ」
その時でした。店の扉が勢いよく開くと、大きなベビーカーを押した3組の親子連れが騒々しく流れ込むように入ってきました。一気に店内に流れていたピアノ音楽が聞こえなくなりました。
ママ友とでも言うのでしょうか。年頃は30代くらいの母親達はベビーカーいいですかのひと言もなく、勝手に狭い店内のトイレに向かう通路にベビーカーを置き、窓際のテーブル席を2つ勝手に連結させて陣取りました。その周りでは4人の子どもが走り回り、大声を上げています。それまでいた他のお客様が迷惑そうに見ていても知らん顔です。母親達はテーブルにあったメニューを広げて、身振り手振りも交えて、熱心に何かを話し合っています。
何か面倒な事が起ると察知したのか、常連のお客様方がお勘定をして足早に帰っていかれました。
やれやれ。これは大変な事になったなと、僕が諦めて人数分のおしぼりとお水を用意していると、何かが落ちて割れる甲高い音が鳴り響きました。顔を上げると、走り回っていた子どもが、店の要所要所に置かれたランプを落として割っていました。慌てて、破片を片付けに行くと、子ども達は吃驚した顔をして、どうしていいかわからないらしくその場に突っ立って割れたランプを見ていました。
母親達も気付きましたが、特に立って詫びにくるでもなく、座ったまま子どもに「あーぁーだから、走っちゃダメだって言ったじゃない」とか「ちゃんとごめんなさい言って」とか、「触っちゃダメよ。危ないから」なんて言っているだけで、誰1人として自分の子どもがやった事なのに謝ろうともしませんでした。子ども達は母親になにを言われているのかわからなかったらしく、暫く僕が片付けるのをぼんやり見ていましたが、そのうち飽きたようで何も言わず母親の所に駆けていきました。
割れたランプは水色の案外気に入っていたものでしたので、さすがの僕も少しショックで、途方に暮れている子ども達にかけてやれる言葉が思いつきませんでした。最近、ショックな事が多いな。
破片を片付け終わって、カウンターに戻ると、さっきの母親達からすみませーんと呼ばれました。
用意したおしぼりと水を持って行ってみると、テーブルではやっと座った子ども達が持参したジュースとお菓子を食べています。
「お待たせしました。ご注文は?」
パーマがかかったショートカットヘアのふっくらとした母親の1人がキツそうな目を細めながら、キャラメルソイラテは作れるかと聞いてきました。生憎豆乳が切れていましたので、難しいですと答えた所、不服そうにそんなものもないのー?と、言われました。
「しょうがないからカフェラテにする。アイスで。本当は牛乳よりも豆乳の方が健康にいいのよね」
不服そうな顔を張り付かせたまま、その方は不承不承注文されました。それを聞いて、隣の少し若かめの巻き毛の方がお喋りそうな口を突き出しながら言いました。
「えーじゃあ、私は紅茶にしようかなぁーロイヤルミルクティーのアイスって出来ます?」
「バカね。缶ジュースじゃないんだから」
すぐに隣のショートカットの方に突っ込まれて「はぁー また出来ないのー?」と言っています。
「大丈夫ですよ。ロイヤルミルクティーですね。おあとは?」
一番流行に敏感そうなお洒落な身なりをしたポニーテールの方が、ジュースはありますか?と聞いてきました。僕は、オレンジジュースと蜂蜜レモンスカッシュをご案内しました。
「オレンジは在り来りだから、私は蜂蜜レモンスカッシュにするわ。以上で」
そう言うと、母親達はお喋りの続きを始めた。その横で、子ども達が与えられたスマートフォンでゲームでもやっているようでした。やれやれ。今時の母親は・・・今時の子どもは・・・