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珈琲日和 その20

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 うちの店には小太郎という住み込みのアルバイトがいます。
 小太郎の名付け親は僕。小太郎は黒い蠅取り蜘蛛です。不幸な事故で亡くなってしまわれた常連の太郎さんとちょうど入れ違いに店に来た、どことなく太郎さんを思わせる小太郎は、長い間、僕の店で有能な蠅ハンターとしてアルバイトしてくれていたのでした。
 梅雨も明けた7月も終わりの暑い夏の夜でした。日も暮れかかっているというのに、一向に涼しくならないので、打ち水でもしようと僕は外に出たのです。その時、トイレのドアの右上のいつものポジションに彼は(もしかしたら彼女だったのかもしれませんが)くっ付いていたのをちらっと見たような気がします。うちでたくさん蠅を食べているからか、小太郎は普通の蠅取り蜘蛛より数倍大きく黒かったので何処にいても比較的すぐに見つけられるのです。
 僕は、表に思う存分水まきをして、開店準備をしている隣の店の美和子さんと軽く世間話をしてから店に入りました。そのすぐ後に、会社帰りのお客様達がいらっしゃり閉店までの20時までの間賑やかな時間が流れました。
 21時近く、最後のお客様がお帰りになり、閉店準備をしている時、ちょうどお客様から貰ったヤクルトがあったのを思い出して、甘いもの好きの小太郎に飲ませてやろうと、小皿に移してカウンターの端っこに置いておきました。そこはいつも小太郎が飛び降りてくるポイントだったからです。そして、僕は掃除を始めました。カウンターとテーブルと椅子を拭いて、食器を洗う。明日の準備をしてダスター類を消毒する。
 店の照明を一つずつ消している時にようやく気付いたのです。ヤクルトの近くに小太郎がいない事。そして、ヤクルトも僕が置いたそのままで変わっていない事。食いしん坊で、何にでも興味津々の小太郎が、ヤクルトを見て見ぬ振りする筈ないので、今までそんな事は一度もなかったので、不思議に思った僕は、小太郎のいつもの位置から店内のお気に入りポイントまで全てを見て回りましたが、小太郎を発見する事は出来ませんでした。それでも、まぁ狭い隙間にでも入りこんで蠅でも食べているのかもしれないと思い、ヤクルトはそのままにして店を後にしたのでした。夜にでも発見して飲むかもしれないと思いました。
 翌日は台風の影響か、雨がぱらつく生憎の天気でした。僕はいつもより早目に店に行きました。何故だか胸騒ぎを覚えたからです。そして、ヤクルトに変化はなく、小太郎の影も形も無い事を確認してガッカリしました。小太郎はまるで最初からいなかったかのように何処にも見当たりませんでした。もしかしたら、昨日の昼間に外に出た時に、一緒に出ようとして扉に挟まってしまったのかも。もしかしたらお客さんに踏まれてしまったのかも。エアコンに入り込んでしまったかもと挟まりやすい場所、隙間も手当たり次第探しましたが、見事にいません。僕は埃だらけの両手のまま力なくカウンター席に座り込みました。何処に行ってしまったのだろうかと、途方に暮れました。あんなにいつも当たり前のように一緒にいた小太郎がいなくなるなんて、想像すらしていなかったのです。
 寿命で死んでしまった訳ではないとは思うのですが、親友だと勝手に思っていただけに、仕方ないのかもしれませんが、前触れもなく去ってしまった事にショックが隠しきれませんでした。
 開店してからも、僕は余程ガックリしていたのでしょう。いつものように陽気にカウンターに座ったシゲさんがアイスカフェオレと言うより早く、なんでぇまた振られたのかと聞いてきたくらいです。またって。僕はそんなにシゲさんに振られた話をしてないような。そもそもあまり振られていない以前に、そんな多くの方に告白だとかお付き合いをしていないと思うんですけどと突っ込みたいのを堪えて事情を話すと、シゲさんはなーんだと心配しちまったじゃねーかと笑いました。
「仕方ねぇよ。もしかしたら、蜘蛛も、猫みてぇに、死期が近付いたら死に場所を探して、行方をくらましちまうのかもしれねぇしな。ゴミ箱とか探したか?」
 シゲさんは、決して悪気はないのですが、落ち込んでいる僕を増々悲しくさせる追い打ちをかけてきます。
「一応。落ちたかもしれないと思って、少し混ぜてみましたけど、いなかったので」
「そっかそっか。もしかしたら家出かもな」
「やっぱり。そう思いますよね。それとも何か事故があったとか」
「大袈裟だねぇ。心配すんなって。奴だって一人前の立派な蜘蛛なんだから。ちっとやそっとの事じゃあ死にゃあしねーよ」
「そう、ですよね。心配し過ぎですよね」
「あ、でも俺この間、うっかり蜘蛛踏んじゃったわ。足下見ずにただいまーって家の敷居跨いだら、ちょうど奴さんが下にいてさ。向こうもよそ見してたみたいで気付かずにプチって。」
「じゃあ、シゲさんが小太郎を?!」
「ちげーよ。小太郎は黒だったろ。そいつは茶色の縞がついてた。可哀想なこった。蠅取りは俺らと同じようにてめぇの目で見て動いてるから、見えないと気付かないらしいな」
「そうなんですか・・・」シゲさんに聞けば聞く程、僕の不安はどんどん膨らんでいきます。
「まぁ、大丈夫だ。そのうちひょっこり戻ってくるかもしれねぇよ。家出ならな。実家の味って奴を思い出してさ。だから、ま、あんまり悄気るなって」
 そう言ってシゲさんは励ましてくれましたが、それは、まず無いなと思いました。蜘蛛の知能を侮っている訳ではなく、きっと何か理由があって出ていったのだろうと。そうじゃなきゃ、2年以上も居着いたこの店を離れる訳が無い。小太郎にとって居心地が良い家だったと、そう思いたい僕は必死に反論する言葉を探しました。けれど、なかなか見つからなかったので、諦めて、グラスを拭きながら、最近芸能人に遭遇したと言う話をし始めたシゲさんに聞こえないように溜め息をつきました。
 窓の外は、いつの間にか小雨も止み、いつから差し込んでいたものか朝までの憂鬱な天気が嘘のように強い夏の日差しが溢れかえり、その攻撃的な光量と熱量が眩し過ぎて簾を下ろしていても目が痛んできます。風もなく、焼け付くような中、小太郎は一体何処に行ってしまったのだろうと、思いを馳せました。何処か遠くの土地で、コンクリートを這うようにして漂う逃げ水に塗れてふっとその黒い姿が溶けてなくなってしまう小太郎を想像すると胸が張り裂けそうでした。別れはいつでも唐突にやってくる。それはわかります。けれど、少しくらい猶予があってもいいじゃないか。僕は心の中で1人愚痴たのです。ずっと一緒にやってきたんだ。サヨナラの挨拶一つくらいしたっていいじゃないか。だって、友達だろ。友達だと思っていたんだ僕は勝手に。すごく自分勝手に。でも、それくらい思ってたっていいじゃないか。
 ・・・小太郎、どうしていなくなってしまったんだよ。
 なんだか、1人ポツリと取り残されたような寂しい気分だけが残りました。

 数日後、渡部さんご夫婦が珍しいお客様を連れてこられました。
作品名:珈琲日和 その20 作家名:ぬゑ