奇跡の帽子
俺はまだ刀根崎を信用していなかった。福尾と一緒なら逃げたりはしないだろう。もう一度彼らを確認すると、俺は小田切の背中を追って深い森に入っていった。
「おい、あれはなんだ?」
不意に声をひそめて小田切が振り向く。そこで俺たちはとんでもないものを目にする。
「あいつ……信じられん! 人を、人間を食ってやがる!」
視線の先には髭をぼうぼうに生やした日本兵が、死体の腕をそぎ落として口に入れていた。まるでそれは家畜をさばくように、妙に手際が良く見えた。
「おい、貴様! いったい何をしている! 気でも狂ったか!」
俺は銃口をその日本兵に向け、嫌悪感をむき出しにした声で叫んだ。人気の無い場所で、急に人の大声を聞いたそいつはびくっと肩を震わせた。だが、口のまわりを血まみれにしてもくもくと肉片を口に運んでいる。ガラス玉のような眼でこちらを見つめたまま、逃げるそぶりさえ見せない。
「追い払うか? 弾はまだ数発あるぞ」
「やめとけ、牧原。あいつはもう気が狂っているようだ」
人間のタブーを平然と犯している男に向かって、吐き捨てるように小田切は呻いた。踵を返した瞬間その男がもごもごと何かを言った。良く聞こえなかったが、このように聞こえた。「俺の姿は、おまえらのすぐ未来の姿だ」と。食料を探すという気力も体力も萎えてしまった俺たちは、とぼとぼと福尾たちの方角に向かって戻っていった。
数時間後、村の入り口にやっと辿り着いた。軍曹の腐り始めた死体が目印というのも皮肉なものだった。
「何か焦げ臭くないですか?」
福尾が鼻をひくひくさせて首を傾げる。嫌な予感がした。俺たちは村に向かって足を速めた。
「燃えてるぞ! 村人を探せ!」
俺の声に弾かれたように、全員が走り出す。しかし木でできた家は、マッチ箱のようにみるみる燃え上がっていく。
「おーい、ターニャ。マーニャ! どこだあああ!」
福尾が喉から絞り出すような大声で叫ぶ。小田切は燃え盛る火を物ともせず、棒切れで家の入口を壊していく。煙の合間から焦げた人の足が見えた。俺と小田切でその足を持ち、力任せに引っ張り出す。その顔には見覚えがあった。どうやらここに来た時に福尾と話した男性のようだ。
「福尾、ちょっと来てくれ!」
「う、うう……」
男性は背中には大きな痛々しい火ぶくれができ、皮が垂れ下がっている状態だった。それとは別に、背中に銃創のような穴が見える。まだ息はあるようだったが、すぐに死んでもおかしくない状態だった。その時、福尾が来る前に男は目をカッと開けた。そして黒く焦げた腕をゆっくりと上げ、森の方向を指さす。
「なんて言ってる?」
駆け付けた福尾が彼の口に耳を当てると、うんうんと頷く。そのうちに男性の腕はさっきよりも少し早く下がって行き、ついには全く動かなくなってしまった。
「どうやら、日本兵に村を襲われたようです。女や子供たちが森の奥に連行されたと言っています。その中にターニャ達もいるようです」
「なに! 脱走兵の奴らか。あいつら――何て事を!」
俺はこの時、相当に頭に血が上っていた。何の罪も無い村人を襲うとは。きっと俺たちと同じ格好をした脱走兵を、同じようにこの人たちは笑顔で迎えたに違いない。
「行くぞ!」
男性の示した方向に俺たちは走り出した。もう、腹が空いた、身体がだるいなんて事はとうに頭から消えていた。
数分程行くと、森を抜けた所に開けた小高い丘があった。やはり、そこには女性数人と、子供たちが固まって蹲っていた。その周りを取り囲むように、汚れた軍服を着た3人の男たちがそれぞれ銃やナタのような物をもって今にも襲い掛かりそうな態勢で立っている。
「男たちは既に殺されたようだな。あいつら、まさかあのまま虐殺するつもりか?」
俺と同じように木の陰から様子を見ていた小田切が、今にも飛び出しそうな姿勢で目線を送った。
「待て。何か作戦を立てないと村人が人質になるぞ。あ、おい!」
俺の言葉を最後まで聞かず、小田切が銃を構えて走り出す。続いて福尾、刀根崎が目を真っ赤に腫らしながらそれに続く。こうなったら仕方ない。人数ではこちらの方が一人多いし、一気に制圧するしかない。
「貴様らああああ! 何をしとるか!」
「恥を知れ!」
小田切と福尾の大声で、男たちがこちらを一斉に見た。その足元では女性たちが上半身を裸にされ、泣きじゃくっている。子供たちは怯えきった顔で母親にすがりついていた。その中にターニャとマーニャの姿も見える。
「驚いたな、貴様らも日本人か。ちょうどいい機会だ。一緒に楽しまんか? おや? そこにいるのは刀根崎じゃないか。食料を盗んでこいって言ったのに、逆に捕まるとは。バカな奴だ」
身体の一番大きな日本兵が卑屈な笑いを浮かべながら身構える。
「おい、貴様こいつらの仲間だったのか!」
小田切が振り向きざまに刀根崎を睨む。当の刀根崎はずる賢い眼つきをして、どちらにつけばいいか戦局を見据えているようだ。そして結論が出たのか、一人背を向け森の中に逃げて行った。
「ふざけるな! その人たちは、この戦争の被害者なんだ。何の罪も無いだろうが!」
俺のその言葉も言い終わらないうちに、小田切は空に向かって一発発砲した。それを見た脱走兵たちは人質の陰に隠れ、俺たちに向かって発砲を始める。
(なぜ、敵国の兵士を倒さないで日本人同士で戦わなければならないんだ。これが戦争なのか)応戦しながら、俺はこんな事を考えていた。戦局は当然こちらに不利だった。何しろ相手は女子供を盾にしているのだ。
「どこまでも卑怯な奴らめ! 小田切、奴らの後方に回り込んでくれ」
その時、俺の耳元を弾丸がかすめた。斜め後ろにいた福尾が胸を押さえて倒れこむ。
「おい福尾、大丈夫か! 息をしろ!」
「じ、自分はもうダメです。牧村上等兵殿、ひとつお願いがあります。国に帰ったら、家族に俺の死に様を伝えて下さい。そして、どれだけ母、妹を愛していたかも……」
「伝えるぞ! 伝えるが、おい、息をしろ! 福尾!」
そっと目を閉じた福尾の身体は、もう二度と動くことは無かった。
「バカ野郎! 何が幸運の帽子だ! 許せ、福尾」
その頃後ろに回り込んだ小田切が、虎のような動きを見せる。そっと敵に近づくと、一人の首を短刀でそっと抉る。声も出さずに倒れこんだその男の身体を踏みつけながら、もう一人の背中を打ち抜く。
「何なんだ、貴様らは! 偽善者ぶりやがって! 俺たちは日本兵が死体を食う現場も見てきたんだ。食い物が無ければ、俺たちだっていずれそうなってしまうんだぞ」
大柄な男は滝のような汗をかきながら叫んだ。よし、注意が小田切に向いている今がチャンスだ。俺はあらん限りの力を込めて地面を蹴ると、ターニャがいる場所まで走った。
「早く森の中に逃げろ! さあ、早く!」
言葉は通じないが、女たちは子供たちの手を引いて走り出した。ターニャとマーニャは一瞬俺を見てにこっと微笑んだ。その微笑みは「知っていたわ。あなたたちは悪い人じゃないってことを」と言っているように見えた。
「さあ、観念しろ。もう人質はいないぞ」
小田切は武器を捨てるように促しながら、大男に詰め寄る。そう、この時、勝負は完全についたと俺も思っていた。