奇跡の帽子
「かもしれないな。どちらにしろ、今日はもう動かない方がいい。もし奴らに襲われたら、俺たちの銃じゃまるで歯が立たん。おまけに弾薬も残り少ない」
その夜は川の近くの茂みで野宿する事にした。眠れない俺は、福尾の高熱の原因を考えていた。彼の熱の原因はひょっとしたらマラリアに感染しているのかもしれない。もしくは伝染病か。休みなく襲ってくる蚊やアブには慣れっこになっていたが、密林にはアメリカ兵の他にも恐ろしい動物や昆虫がまだまだいた。
「おい、福尾。起きてるか?」
背嚢を枕にした状態で顔にたかる蚊を手で払いながら、寝苦しそうにしている福尾に話しかけてみた。逆に小田切はまだ心配ないようだ。なぜなら俺に背を向けて、健康そうな高いびきをかいている。
「はい。今日は色々な事がありすぎて、眠れませんでした。あの、ひとつ聞いていいですか?」
虫の声を聴きながら、木々の切れ目から見える美しい月を見ていると、ここが戦場だという事を忘れそうだった。
「なんだ?」
「自分の実家は富山にあります。親父はもう他界していて、おふくろが自分と病弱の妹を育ててくれました。もし……自分がここで死んでしまったら、誰が母さんと妹の面倒を見てくれるんでしょうか。だから絶対に死ねないんです。牧村上等兵殿は、国に守るべきひとがおられますか?」
熱で苦しいのか、時々咳と唸り声が混ざっている。
「俺か? 父と母、そして貴様と同じように妹がいる。アメリカ憎し! とは思ってはいても、実は……今日の幼い姉妹の姿を見た時だ。戦地へ向かう船出の港で、小さな手を力いっぱい振りながらぽろぽろと涙をこぼしている妹の姿が重なってな。情けない事に『生きて日本に帰りたい』と思ってしまった事も確かなんだ。こんなこと誰にも言うなよ」
もし軍曹があの世で聞いていたら、「貴様ああ! アメ公を一人でも多く抹殺して死ぬのが日本兵じゃないのか? それより何より、まずわしの敵をとらんか!」と怒鳴られるのが落ちだ。
「いや、自分は情けないとは思いません。みんな口では言いませんが、このままでは日本は負けると感じているはずです。大本営は『大進軍快勝! 無敵の日本海軍』などと吠えておられるようですが、現場の状況はまさに正反対です。物量が大幅に上回るアメリカ軍に勝つ方法は、残念ながらもう無いと思います」
最後の方はひそひそ声になっていた。もしこんな事を他の誰かに聞かれたら、軍法会議じゃ済まず、場合によってはその場で処刑もありえるからだ。
「敗戦か。そうなったら日本人はいったいどうなるのだろう。それよりも今は貴様の身体が心配だ。そうだ、いい方法がある」
「何ですか?」
俺は立ち上がると、自分の被っていた軍帽を福尾の枕元に置いた。代わりに少しサイズが小さかったが、彼の軍帽をきゅっと被った。
「いいか。俺は生まれてから一度も、ケガや病気らしい病気もしたことがない。大事な銃を取り換えてやる事はできんが、帽子ならかまわんだろう。それにあやかって何かひとつ俺の物を持っていろ。きっと病気も良くなるさ」
「いいんですか? お心遣い感謝いたします」
「ああ、汗臭いのはお互い様だから、その辺は我慢しろよ」
しばらくすると、軽く寝息が聞こえてきた。それから俺も少しうとうとできたが、夢の中で福尾のすすり泣くような声がずっと聞こえていたような気がした。
翌朝、争うような物音で目を覚ました。
「おい牧村、福尾、起きろ! こいつ、俺たちの荷物を漁ってやがった!」
小田切が一人の日本兵に馬乗りになり、拳をそいつの顔に叩きつけていた。鈍い音に混じって「やめてくれ! 同じ日本人だろ? もう殴らないでくれ」というか細い声が聞こえてくる。
「やめろ、小田切。そいつの腕を見てみろ。俺たちみたいにガリガリじゃないか。それ以上やると本当に死んでしまうぞ」
足に力が入らない。だが、歯を食いしばって立つと、小田切をそいつから引きはがした。
「貴様、どこから来た? 他の仲間はどうした? こんなことして日本人として恥ずかしくないのか!」
まだ殴り足りないのか、小田切は俺の身体を引きはがそうともがく。
「じ、自分は刀根崎一等兵であります。オルモックから険しい山を越えて、ここから5キロほど離れた場所まで偵察に来ていました。途中でアメリカの野戦砲にさらされ、我が部隊はバラバラに散りました。奴らは仲間を生きたまま火炎放射器で焼くと、塹壕ごとブルドーザーで埋めはじめて……畜生! 奴らその時、人間を焼きながら笑っていたんですよ!」
悲惨な光景が目に浮かんできたのか、ぼろぼろと涙を流し始めた。だが俺は、何故かは分からないが、この刀根崎という男の涙に何か違和感を感じていた。
「だから昨夜は遠くで銃声が止まなかったのか。ところで刀根崎。なぜ俺たちの荷物が必要だったんだ?」
少し落ち着いてきた小田切が質問をぶつけた。
「銃の弾を探していたんです。ここで来るまでに、行き倒れている兵士が持っている銃には何故か弾が入っていませんでした。アメリカ兵か、もしくは徒党を組んだ脱走兵らがかき集めているのかもしれません。自分は仲間の敵を取るために……申し訳ありませんでした。どうぞ殺して下さい」
「なに? 脱走兵もいるのか」
「はい。たぶん近くにいると思います。そいつらは食い物が無くなると、現地の村落を襲って食料を強奪するそうです。『貴様らゲリラだろう!』といいながら、何の罪も無い一家を皆殺しにしたという話も聞いています」
「とんでもねえ奴らだな。日本人のツラ汚しだ。待てよ……。そいつらがこの近くにいるって事は、ターニャの村が危ないじゃないか!」
俺のこの言葉で福尾が飛び上がった。さっきまで曇った眼をして聞いていただけだったが、その顔に生気が戻っている。さっそく帽子の効果が出た、という訳ではあるまい。
「た、大変だ。すぐに戻りましょう! あの村が危ない」
彼もターニャ達に妹の姿を重ねていたのだろうか。上官でも無いのに俺たちに向かって命令調で叫んでいる。
「まあ、二人とも落ち着け。貴様は刀根崎と言ったな? 今の話を聞けば分かるように、俺たちには命の恩人がいる村があるんだ。少し手を貸してくれないだろうか? 人数は一人でも多い方がいい」
小田切はもうすっかり落ち着きを取り戻し、俺と福尾を手で制すと、優しい口調で刀根崎に話しかけた。
「え、ええ。構いませんけど、そこの村人を助けた場合、食料か何か彼らから貰えるんでしょうか」
何か歯にものが挟まったような聞き方だ。
「それは分からん。俺たちはただ恩返しをしたいだけだ。日本人は受けた恩は絶対に忘れん」
腕を組みながら小田切はふんぞり返った。
「分かりました。どうせこのままでは近いうちに自分は飢え死にするでしょう。ついていきます」
刀根崎一等兵が仲間に加わり、俺たちはもと来た道を歩き出した。しかし、来た道を戻るのも容易ではない。ぬかるみは更に酷くなり、体力的にもかなり弱ってきている。
「なあ牧村。いったん休憩して、カエルでも探しに行こう。このままだとここでくたばりかねん」
小田切はズボンの腿のあたりまで泥に濡らした姿で嘆いた。
「そうだな、少し休もう。福尾はここで待っていてくれ。刀根崎も一緒にだ」