奇跡の帽子
そこまで言った後、俺はここで不思議な事に気づいた。軍曹がいつの間にか姿を消している? だが、この時はこの少女たちと話すために小田切もしゃがみこみ、身振り手振りでコミュニケーションを取っているのを見ているだけで楽しかったので、別に気にも留めていなかった。
「7歳と5歳だろ? 違うか?」
「大当たりです。さすが小田切上等兵」
にこっと笑顔を浮かべる福尾の顔は、さっきまでの衰弱した人物とは別人のようだ。
「ふふ。じゃあそろそろ出発しなきゃな。最後に『ありがとう』と伝えてくれ」
「Maraming salamat po.」
それに答えるように少女たちは笑顔で握手を求めてきた。俺たちと一人ひとり握手をすると、ターニャはマーニャの手を引いて、建物に走って行った。
「あれ、軍曹はどこに行った?」
小田切はキョロキョロと周りを見回した。
「さっきからいなかったぞ。小便にでも行ったのかと思っていたが、ずいぶんと遅いな」
「まさか……」
俺が首を傾げたのを見て、福尾が短く言葉を発した。
「なんだよ」
「いや、さっき軍曹に水と芋を渡したんですが、その時『これじゃ一人分の食料にもなりゃしねえな』って小さな声で言っていたんですよ」
「待て。ってことは、軍曹が食料を独り占めにして逃げた可能性があると?」
小田切の顔がみるみる真っ赤になっていくのが分かる。
「早まるな。まだそうと決まったわけじゃないだろ。とにかく下の道に戻ってみよう」
そして俺たちは元来た道を戻っていった。信じたくない結末では無いように祈りながら。
10分後、最初に少女を見つけた場所で凍り付く俺たちがいた。そう、予想は半分当たっていた。
そこには……頭をざくろのように割られた山口軍曹の死体が転がっていたのだ。ぽっかりと宙を見つめる軍曹の眼はいったい最後に何を見たのだろうか。
「どうやら、福尾の推理は当たっていたみたいだな。だが、一つだけ納得できない事がある」
二人の視線が俺に集まる。
「いいか? 水の入っていた瓶と芋が軍曹の死体の足元に散らばっているだろ? なにかおかしいと思わないか?」
俺は被りなれたカーキ色の軍帽を取り、袖で汗を拭きながら彼らの答えを待った。
「あの、ひょっとしてこういう事ですか? 軍曹を殺した奴は、腹を減らした日本兵では無く、アメリカ軍の可能性が高いと」
「そうだ。この辺りには空腹で我を失った日本兵がどこに潜んでいてもおかしくない。極限の空腹は人間の心を狂わせるからな。もしそいつらにやられたとしたら、食料が無事であるはずがない。つまり……やった奴は腹を減らした奴ではないってことになる」
「じゃ、じゃあアメリカ軍がもうこの近くに来ているって事じゃないですか!」
「そうなるな。軍曹がここまで来ていたって事は、残念ながら持ち逃げしたのだろう。でも上手くはいかなかった」
「運悪く、一番にアメリカ兵に見つかってしまったと」
小田切が深いため息をつく。だが、すぐに気を取り直すと、まだ温かいであろう軍曹の死体の脇からひょいひょいと一部血に濡れた芋を拾い集める。
「おい」
「しょうがねえだろ? これを食べなきゃ、どっちにしろもうすぐ俺たちは飢えて死ぬ。飢えて死ぬくらいなら、体力のあるうちにアメ公と戦って死んだほうがましだ」
小田切の言うことはもっともだった。持ち逃げした軍曹は情けないが、その死を与えたのはアメリカ兵だ。俺の中にめらめらと憎しみの炎が燃え上がるのを感じる。塹壕での仲間の惨たらしい死体を見たときから、この感情は時間が経つにつれ危険な芽を吹きだしていた。
「あの、ここからすぐに移動した方が良さそうですね。たぶんまだ近くにいるでしょうし」
福尾の言葉にはっと現実に戻った。
「そうだな。もうすぐ日が暮れる。暗くなったら闇に紛れて移動しよう。とにかくまずは腹ごしらえだ」
俺たち3人は近くの灌木の陰に隠れて芋を齧った。自分以外の胸の中は分からないが、たぶんみんな俺と同じ考えだろう。『きっと敵はとってやるぞ』と。
三時間後、少女たちから情報を聞いた福尾が先頭を歩き、相変わらずうんざりするような暑さに顔をしかめながら俺たちは密林を歩いていた。昨夜降った短く激しい雨のせいだろうか、足元はぬかるみ、思うように勧めない。
「ちょっと止まれ。何か聞こえないか? ひょっとしてこれは川の音じゃないか?」
わずかに残った水筒の水は既に2時間前に飲み干していた。猛烈に喉が渇いている俺の耳には、幻聴が聞こえていたのかもしれない。だが……。
「ええ、自分にも聞こえます。その崖を下った所あたりでしょうか」
福尾の顔色はまた青白くなり、肩でぜえぜえと息をしていた。肩に掛けた突撃銃が重そうに揺れている。
「行ってみようぜ。間違いでも大して道草にはならないだろうし」
元気づけるような声で小田切も言葉を発した。しかし、喉が渇きでひりついているからか、所々がかすれている。どのみちこのまま歩いても、水は補給できる見込みはない。少しその場で迷ったが、俺たちは川のあると思われる方向によろよろと歩きだした。
幸運なことに、そこにはやはり小川が流れていた。上官から『決して生水は口にしないように』と言われていたが、もうそんな事は関係なかった。
「水だああああ! 水だぞう!」
我を忘れて俺たちは顔を川に突っ込み、ごくごくと喉を鳴らして飲み始める。少し鉄のような変な味がしたが、もうそんな事にかまってはいられなかった。
ごつん!
その時、何かが俺の左肩に当たった。それはそのまま俺を押しのけるように圧力をかけてくる。その感触はまるで……。
「お、おい。牧村! それ!」
俺の下流にいた小田切が素っ頓狂な声を上げる。顔を横に向けて彼の方向を見るとその口からコマ送りのように水が噴き出しているのが見える。そう、すなわち反射的に嘔吐を始めているのだ。
「げええええええ!」
もちろんすぐに俺もその『物体』に気づいた。それは……頭が半分無い人間の死体だった。つられて俺も福尾も今飲んだものをほとんど吐き出してしまった。しかし、ここで一番精神的に弱いと思われていた福尾が意外な言葉を口にする。
「げほ! 牧村上等兵殿。でも自分たちは……これを吐き出してはいけないと思います。その死体はどうみても日本兵です。彼らの口惜しさごと命の水を飲み込まないといけないんです」
「だがな、福尾」
「いえ、断固そうすべきです! お二人ともさっきの軍曹を見たときの口惜しさを忘れた訳じゃないでしょう?」
小田切の言葉をきっぱりとさえぎった。
「後で、腹を壊しても知らんぞ。分かった、水は飲もう。更に水筒にも補充しよう。だが実は、問題は別にあるんじゃないかと思う」
「何ですか?」
俺の顔を福尾は不思議そうな顔で見つめる。
「死体は上流から流れてきた。つまり、上流で殺し合いが起こっているって事になるんだ。しかもこの残忍な殺し方を見ろ。まるで軍曹の死体そっくりじゃないか。普通の銃じゃこうはならん」
「待て。ってことは、アメリカ兵がもう山の上にいるってことか?」