奇跡の帽子
「こちら……第……小隊、無線兵の河村です。目視によると、敵の戦車及び野戦砲が上陸。……わが小隊は自分以外、上官を含め全滅! 繰り返す、全滅です。あれはなんだ? いったい何をしようとしているんだ……まさか」
雑音に混ざって砲弾や銃声とは明らかに違う音が聞こえてきた。しかもその音はだんだん大きくなっていく。そして、まだ少年のような声をした生き残り兵の、喉の奥から絞り出すような悲鳴とともに無線の声はついに途絶えた。
「今のは火炎放射器の音だ。奴ら塹壕を見つけ次第、片っ端から焼き払っているのか? 畜生が!」
大きな体をぶるぶると震わせて、軍曹の顔が怒りで真っ赤になる。その大声に福尾は腰を抜かして尻もちをついた。
「戦車と野戦砲、おまけに火炎放射器だとさ。こりゃ俺たちが生き残る可能性はかなり低くなったな」
俺の肩をぽんぽんと叩く小田切の表情に、何かを悟ったような感情が浮かんでいた。
「まだあきらめるな。こんな派手に艦砲射撃をやったなら、必ず日本軍の増援が来るはずだ。ただ……それまで弾薬と食糧が持つかだが」
福尾の手前、この時の俺は少し元気の出ることを言いたかった。
「いや、補給船なんぞはことごとく撃沈されるだろう。これから俺たちを待っているのは、うんざりするような暑さと密林、そして『飢え』だよ」
「ずいぶん悲観的だな」
「そうなるさ。断言してもいい」
そうこうしているうちに、手元の無線機は雑音しか発しなくなっていた。福尾が頑張ってどう調整しても、どこからも、そうどこからも今は『人間の声』は聞こえてこなかった。
10日後
もう俺たちに食べるものは何もなかった。山を登る途中で、【リモン峠に向かえ!】と手書きの紙が木に貼ってあるのを福尾が見つけた。生き残りの日本兵が書いたものに違いない。リモン峠とはここから北西に行ったところにある山脈で、東西の平野の中継点のような峠だった。そこから南に下っていけば、日本軍の拠点であるモルモックに帰れるはずだった。
「なあ、いつになったら峠に着くんだろう。昨夜食べたカエルに当たったのか、腹がひどく痛むんだ」
顔をしかめながらよろよろと歩く小田切の顔は、まるで別人のようにこけはじめていた。当然俺も同じような顔をしているに違いなかった。蒸し風呂のような暑さのせいで軍服は脱ぎっぱなしにして背嚢に縛ってある。
「だが歩き続けるしかない。後ろからはアメリカ軍が大勢迫ってきている。死にたくなければ足を前に出すんだ!」
鬼軍曹と呼ばれるだけあって、声は相変わらずでかかった。しかし、彼の顔も髭がぼうぼうで、あたかも地獄の閻魔様のように見える。
「しかし山口軍曹。福尾が見るからに死にそうな顔です。もう食べ物も受け付けないほど衰弱していますので、ここら辺で休憩が必要かと」
俺の指さす方向には、木の枝を杖代わりにしてふらふらと歩く福尾の姿があった。
「仕方ない。もう少し行ったところで休憩しよう。何より、早くここは通り過ぎたい」
軍曹の言いたいことは良く分かっていた。森の奥へ続くけもの道には、峠を目指しながらも息絶えた日本兵の死体がごろごろと転がっていたからだ。それらはジャングルの暑さですぐに腐り、中には動物に食い荒らされたような死体もあった。動物とは……腹を極限まで減らした人間も含まれるが。骨がむき出しになっている足の部分は、元から無かったのか後から無くなったのか判断できなかった。
「おい、あそこで何か動いたぞ! そのまま木の陰に隠れろ!」
軍曹の鋭い声に振り向くと、別れた小道の先に小さな人影が2つ現れた。注意して見てみると、どうやらそれは幼い姉妹のようだ。水を汲みに行くためか、手に桶のようなものを持っている。そして俺たちの姿を見ると、おびえた表情で踵を返して逃げようとした。
「おい、誰か追いかけろ! もしこの先に村があったら少し食料を分けてもらえるかもしれん」
その言葉に弾かれたように、俺は少女たちの後を走って追った。あとから軍曹たちが歩いてついてくるのが見える。
やがて少し開けた場所に出た。そこは……やはり小さな村落であった。少女たちが飛び込んでいった家からすぐに大人たちが飛び出して来る。固い表情をした彼らの手には鍬や木の棒が握られていた。
「そうだ、福尾」
ここで俺は福尾が現地の言葉が少し話せる事を思い出し、すぐに引き返す。大人たちは分けのわからない言葉で背中に声を浴びせてくる。幸い、福尾たちは近くまで来ていた。
「軍曹、この先に小さな村がありました。しかし、大人たちが俺たちを警戒しています。ここは言葉の話せる福尾を連れて交渉してきます」
「分かった。福尾、頼んだぞ。俺と小田切は背後を警戒しながら後から行く」
異常に汗をかいて苦しそうな顔をしている福尾に手を貸しながら、俺たちは村に入っていった。建物は4つ程しか見当たらない。家畜も鶏ぐらいしか居なく、貧しい暮らしをしていると想像がついた。
初めは威嚇するようなそぶりを見せていた大人たちは、笑顔で近づいて行った福尾との言葉のやりとりをしているうちに武器を地面に置いた。そして彼らも笑顔を浮かべ、俺たちを歓迎するようなそぶりを見せ始める。
「大丈夫ですかね。油断させといてグッサリとか洒落になりませんよ」
俺の背中から小田切と軍曹の会話が聞こえてくる。
「村によっては日本兵を極端に嫌うところもあるらしいな。まあそれも当然だ。俺たち日本人のせいで、この地が戦場と化したんだから。途中で聞いた話だと、アメリカ軍が武器を与えて現地人をゲリラ化させて日本兵を刈っているという噂もある」
「脅かさないで下さいよ。もし彼らがゲリラだったら弱った俺たちなんて一瞬でやられますね」
「ああ。だが、俺、いや俺たちは絶対にこんな所で死ねない」
やがて交渉が成立したのか、福尾が手に水の入った瓶と、芋を数本抱えて戻ってきた。
「彼らはなんて言ってた?」
開口一番に俺が聞きただす。
「はい。簡単に言いますと、『正直、この島を荒らした日本兵には迷惑している。しかし困っている人を見捨てては置けない。これをあげるから、すぐにこの村から出て行ってくれ』だそうです」
「なるほど。ゲリラではないようだ。まだアメリカ軍はここまでは来ていないという証明にもなるな」
いつ来たのだろうか、俺の足元にさっきの少女たちが近寄ってきていた。見上げているその顔にはさっき見せたような怯えた表情は微塵もない。福尾は目線を少女に合わせるようにしゃがむと、一言二言会話をする。
「この子たちはターニャとマーニャという姉妹らしいです。異国の人を見るのは初めてなので、しゃべってみたいそうです」
「しゃべると言ってもなあ」
この時俺は困った顔をしていたに違いない。一方小田切は少しはにかんだ様な表情で目を細くした。彼は男兄弟ばかりで、妹のような年の少女に接する事に慣れていないのだろう。
「自分が訳しますよ」
このやりとりを、日焼けした顔でニコニコと姉妹はじっと見つめていた。
「じゃあ、年を聞いてくれ。あと、リモン峠への近道などあればそれも」