奇跡の帽子
2006年 秋
「ねえ、前から聞こうと思ってたんだけど……一樹はさ、何でいつもそんなボロっちい帽子を被ってるんだい? 他の友達のように、お気に入りのチームの野球帽を被るんなら分かるんだけどさ」
小学校からの帰り道、夕日に片頬を染めながら不思議そうな顔でこちらを見つめる少年は、僕の一番の友達のタケシだ。ちょうど帰宅ラッシュの時間でもあり、僕たちの歩く歩道のすぐ脇の車道には車の大渋滞が始まっていた。
「あれ、言ってなかったっけ? これはね、戦争に行った僕のおじいちゃんからもらったんだ。見た目はボロっちいけど、僕にとっては凄く大切な帽子なんだ」
確かに、カーキ色の生地の正面に黒いベルトのついたこの帽子は決してカッコ良くはない。ベルトの上にあったはずの旧日本陸軍の一つ星も既に千切れて取れてしまっていた。
「ふうん。まあ逆に個性があっていいかも。でもさ、横にあるその穴ぼこはお母さんにでも縫ってもらった方がよくない?」
その言葉で僕は被っていた帽子を手に取り、横の部分に空いた穴をじっと見つめた。くるっと裏地をめくると、そこには少し滲んだ字で【福尾一郎】と書いた布がしっかりと縫い付けてあるのが見える。もちろん僕のおじいちゃんの名前じゃないけれど、これには何か理由があったようだ。
「これはね、おじいちゃんにとっては『奇跡の穴』なんだって。だから……このままにしとくんだ」
「奇跡の穴? へんなの。良く分からないけど、一樹が納得しているんならいいや。じゃあ、また明日ね!」
「うん、また明日。バイバイ!」
僕たちはいつものように銀杏の木が立つ交差点で別れた。歩き去っていくタケシの体に夕日が当たり、その長い影がいつまでも僕の視界から離れて行かないのを、この時少し不思議に感じていた。
1944年10月20日 『フィリピン レイテ島』
ここは……まさに灼熱の地獄だ。
かれこれ数時間も続くアメリカ軍艦数百隻による艦砲射撃は、まだまだ止む様子は無かった。それはあまりにも熾烈な攻撃で、その凄まじさはレイテ島の海岸線の形さえも変えてしまう程だった。そして、当時この島を守っていた陸軍第16師団の兵士たちの中に一樹の祖父、牧村大助の姿があった。
「なあ牧村、この分だとすぐに奴さんたちが上陸してくるぞ。物資や弾薬さえも不足している我々日本軍に残された道は……」
『自分がまさに今死ぬかもしれない』という死の恐怖と戦っているのか、同期入隊の小田切がこわばった顔で俺に話しかけてきた。
「……特攻か。うちの鬼軍曹が喜びそうな作戦だな。まあ、どちらにしてもこの砲撃が止まないかぎ」
最後まで言い終えないうちに俺たちのいる塹壕のすぐ近くに砲弾が着弾した。同時に、撒き散らされた殺傷能力が高い破片が空気を切り裂きながらあちこちに散らばっていく。この時点で既に我が小隊12名のうち3名の死亡が確認されていた。要するに、砲弾のかけらで手足をもがれた兵士を除くと、まともに動ける兵士はもう半分もいないような状態であった。しかし、ここよりも下の斜面に陣取る別の小隊は、もっと深刻な被害を受けているに違いなかった。
「おまえらあああ! 頭を下げてろ。少しでも長く生きていたかったら、地面に這いつくばれ!」
鬼軍曹の怒号が響き渡る。彼の頬も鮮血に染まっていたが、それは彼の血か他の兵士の血かは判断できない。俺の右側で蹲っていた小田切が顔を上げ、隣で放心したまま固まっている新兵、福尾二等兵の手を乱暴に引っ張る。
「おい、死にたいのか! 地面に伏せろ!」
小田切は鋭く叫び福尾をそのまま引き倒すと、鉄のヘルメットを被り直してまた地面に這いつくばった。こうしている間にも近くに着弾した砲弾の振動が地面を通して伝わってくる。
怒号と土煙、そして血しぶきが飛び交う中、我が日本軍の反撃は全くできないまま地獄の夜は更けていった。
次の日の朝、真っ黒な顔をした兵士たちが塹壕からぽこぽこと顔を出した。
「生き残っている者はたったこれだけか! 全員すぐに銃と弾薬を掘り出せ。回収後、本隊と合流する!」
我が小隊で生き残ったのは、砲弾でできた小山の上でがなり声を上げている鬼軍曹の山口、小田切と新兵の福尾、そして自分の4名だけだった。
「ちぇ、こんな状況なのに何を威張ってやがる。第一、本隊も無事かどうかも分かりゃしねえ」
俺にしか聞こえないような小さな声で小田切が悪態をつく。
「本隊か。東海岸は壊滅的だろうが、拠点のオルモックは西海岸だ。直撃はくらってないと思うぞ」
掘り出した銃の掃除をしながら俺が答えた。
「西海岸もこの分じゃ時間の問題かもしれんぞ。もしあそこに上陸されたら、我が日本軍は総崩れになる」
会話を聞いていた軍曹が俺の希望的観測を鼻で笑うように一蹴すると、小便のためか林の中に入っていく。入れ替わりに、無線機に付着した土の汚れを落としながら福尾がこちらに近づいてきた。
「牧村上等兵殿! 少し壊れていますが、修理すればまだ使えるかもしれません」
福尾二等兵は本土では修理工場の息子ということもあり、機械の修理は得意であった。色白で細い体に似合った長い指先を持っている。
「じゃあすぐに修理にとりかかってくれ。今欲しいのは最新の情報だ」
「はい。ところで、先ほど山田軍曹は本隊に合流と言っておられましたが、この分だとあちらにも相当な被害が出たのでは?」
小脇に無線機を抱えたまま、心配そうな顔で俺と小田切を見つめる。
「さあな。だが、確実な事がひとつある。それはすぐに奴らは上陸を開始してくるだろうと言うことだ」
この時、俺のこの予想は的を射ていた。アメリカ軍約6万人がまさにこの時、意気揚々と東海岸から上陸を開始していたのだ。日本軍1万数千人で彼らを食い止めるのは、それこそ『神風』が10回ほど吹いても不可能と言えるだろう。
「おい、そろそろ出発するぞ!」
ゲートルを巻き直しながら軍曹がこちらに向かって叫ぶ。
「あの、軍曹殿! 仲間の死体を掘り起こして埋葬してやりたいのですが」
男らしい太い眉を少し寄せながら小田切が進言する。
「だめだ」
「しかし、軍曹!」
「今はそんな時間は無い。……俺も辛いんだ」
にべもなく彼の言葉を撥ね付け、土で真っ黒に汚れた軍服の背中を見せる。
「ちくしょう!」
今度は大きな声で小田切は地面を蹴り飛ばした。だが、幸いな事に軍曹がその言葉を咎めることは無かった。彼もきっと自分の小隊がほぼ壊滅した事に対して、強いショックを受けていたのかもしれない。
歩き出した俺たちの目に映る光景は、まさに『地獄絵図』であった。真っ二つに引き裂かれた大木や、我が隊より上方にあった塹壕から飛び出している人間の手足。そしてまだ所々から上がる白い煙が、まるで戦死した者たちの魂が成仏できずにそこらじゅうに漂っているようであった。
「軍曹! 無線機が直りました」
3度目の休憩の時だ。福尾の少し弾んだ声が疲れた俺たちの気分を少しだけ和ませる。
「よし、よくやった。他の部隊と連絡が取れないかやってみてくれ」
「少しお待ちください」
雑音がしばらく続く。チャンネルを調整しているうちに、切れ切れの声が突然飛び込んできた。
「ねえ、前から聞こうと思ってたんだけど……一樹はさ、何でいつもそんなボロっちい帽子を被ってるんだい? 他の友達のように、お気に入りのチームの野球帽を被るんなら分かるんだけどさ」
小学校からの帰り道、夕日に片頬を染めながら不思議そうな顔でこちらを見つめる少年は、僕の一番の友達のタケシだ。ちょうど帰宅ラッシュの時間でもあり、僕たちの歩く歩道のすぐ脇の車道には車の大渋滞が始まっていた。
「あれ、言ってなかったっけ? これはね、戦争に行った僕のおじいちゃんからもらったんだ。見た目はボロっちいけど、僕にとっては凄く大切な帽子なんだ」
確かに、カーキ色の生地の正面に黒いベルトのついたこの帽子は決してカッコ良くはない。ベルトの上にあったはずの旧日本陸軍の一つ星も既に千切れて取れてしまっていた。
「ふうん。まあ逆に個性があっていいかも。でもさ、横にあるその穴ぼこはお母さんにでも縫ってもらった方がよくない?」
その言葉で僕は被っていた帽子を手に取り、横の部分に空いた穴をじっと見つめた。くるっと裏地をめくると、そこには少し滲んだ字で【福尾一郎】と書いた布がしっかりと縫い付けてあるのが見える。もちろん僕のおじいちゃんの名前じゃないけれど、これには何か理由があったようだ。
「これはね、おじいちゃんにとっては『奇跡の穴』なんだって。だから……このままにしとくんだ」
「奇跡の穴? へんなの。良く分からないけど、一樹が納得しているんならいいや。じゃあ、また明日ね!」
「うん、また明日。バイバイ!」
僕たちはいつものように銀杏の木が立つ交差点で別れた。歩き去っていくタケシの体に夕日が当たり、その長い影がいつまでも僕の視界から離れて行かないのを、この時少し不思議に感じていた。
1944年10月20日 『フィリピン レイテ島』
ここは……まさに灼熱の地獄だ。
かれこれ数時間も続くアメリカ軍艦数百隻による艦砲射撃は、まだまだ止む様子は無かった。それはあまりにも熾烈な攻撃で、その凄まじさはレイテ島の海岸線の形さえも変えてしまう程だった。そして、当時この島を守っていた陸軍第16師団の兵士たちの中に一樹の祖父、牧村大助の姿があった。
「なあ牧村、この分だとすぐに奴さんたちが上陸してくるぞ。物資や弾薬さえも不足している我々日本軍に残された道は……」
『自分がまさに今死ぬかもしれない』という死の恐怖と戦っているのか、同期入隊の小田切がこわばった顔で俺に話しかけてきた。
「……特攻か。うちの鬼軍曹が喜びそうな作戦だな。まあ、どちらにしてもこの砲撃が止まないかぎ」
最後まで言い終えないうちに俺たちのいる塹壕のすぐ近くに砲弾が着弾した。同時に、撒き散らされた殺傷能力が高い破片が空気を切り裂きながらあちこちに散らばっていく。この時点で既に我が小隊12名のうち3名の死亡が確認されていた。要するに、砲弾のかけらで手足をもがれた兵士を除くと、まともに動ける兵士はもう半分もいないような状態であった。しかし、ここよりも下の斜面に陣取る別の小隊は、もっと深刻な被害を受けているに違いなかった。
「おまえらあああ! 頭を下げてろ。少しでも長く生きていたかったら、地面に這いつくばれ!」
鬼軍曹の怒号が響き渡る。彼の頬も鮮血に染まっていたが、それは彼の血か他の兵士の血かは判断できない。俺の右側で蹲っていた小田切が顔を上げ、隣で放心したまま固まっている新兵、福尾二等兵の手を乱暴に引っ張る。
「おい、死にたいのか! 地面に伏せろ!」
小田切は鋭く叫び福尾をそのまま引き倒すと、鉄のヘルメットを被り直してまた地面に這いつくばった。こうしている間にも近くに着弾した砲弾の振動が地面を通して伝わってくる。
怒号と土煙、そして血しぶきが飛び交う中、我が日本軍の反撃は全くできないまま地獄の夜は更けていった。
次の日の朝、真っ黒な顔をした兵士たちが塹壕からぽこぽこと顔を出した。
「生き残っている者はたったこれだけか! 全員すぐに銃と弾薬を掘り出せ。回収後、本隊と合流する!」
我が小隊で生き残ったのは、砲弾でできた小山の上でがなり声を上げている鬼軍曹の山口、小田切と新兵の福尾、そして自分の4名だけだった。
「ちぇ、こんな状況なのに何を威張ってやがる。第一、本隊も無事かどうかも分かりゃしねえ」
俺にしか聞こえないような小さな声で小田切が悪態をつく。
「本隊か。東海岸は壊滅的だろうが、拠点のオルモックは西海岸だ。直撃はくらってないと思うぞ」
掘り出した銃の掃除をしながら俺が答えた。
「西海岸もこの分じゃ時間の問題かもしれんぞ。もしあそこに上陸されたら、我が日本軍は総崩れになる」
会話を聞いていた軍曹が俺の希望的観測を鼻で笑うように一蹴すると、小便のためか林の中に入っていく。入れ替わりに、無線機に付着した土の汚れを落としながら福尾がこちらに近づいてきた。
「牧村上等兵殿! 少し壊れていますが、修理すればまだ使えるかもしれません」
福尾二等兵は本土では修理工場の息子ということもあり、機械の修理は得意であった。色白で細い体に似合った長い指先を持っている。
「じゃあすぐに修理にとりかかってくれ。今欲しいのは最新の情報だ」
「はい。ところで、先ほど山田軍曹は本隊に合流と言っておられましたが、この分だとあちらにも相当な被害が出たのでは?」
小脇に無線機を抱えたまま、心配そうな顔で俺と小田切を見つめる。
「さあな。だが、確実な事がひとつある。それはすぐに奴らは上陸を開始してくるだろうと言うことだ」
この時、俺のこの予想は的を射ていた。アメリカ軍約6万人がまさにこの時、意気揚々と東海岸から上陸を開始していたのだ。日本軍1万数千人で彼らを食い止めるのは、それこそ『神風』が10回ほど吹いても不可能と言えるだろう。
「おい、そろそろ出発するぞ!」
ゲートルを巻き直しながら軍曹がこちらに向かって叫ぶ。
「あの、軍曹殿! 仲間の死体を掘り起こして埋葬してやりたいのですが」
男らしい太い眉を少し寄せながら小田切が進言する。
「だめだ」
「しかし、軍曹!」
「今はそんな時間は無い。……俺も辛いんだ」
にべもなく彼の言葉を撥ね付け、土で真っ黒に汚れた軍服の背中を見せる。
「ちくしょう!」
今度は大きな声で小田切は地面を蹴り飛ばした。だが、幸いな事に軍曹がその言葉を咎めることは無かった。彼もきっと自分の小隊がほぼ壊滅した事に対して、強いショックを受けていたのかもしれない。
歩き出した俺たちの目に映る光景は、まさに『地獄絵図』であった。真っ二つに引き裂かれた大木や、我が隊より上方にあった塹壕から飛び出している人間の手足。そしてまだ所々から上がる白い煙が、まるで戦死した者たちの魂が成仏できずにそこらじゅうに漂っているようであった。
「軍曹! 無線機が直りました」
3度目の休憩の時だ。福尾の少し弾んだ声が疲れた俺たちの気分を少しだけ和ませる。
「よし、よくやった。他の部隊と連絡が取れないかやってみてくれ」
「少しお待ちください」
雑音がしばらく続く。チャンネルを調整しているうちに、切れ切れの声が突然飛び込んできた。