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熾(おき)
熾(おき)
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月のあなた 下(2/4)

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形見



 日向は稲荷の脇にテオドール二世を止めると、鳥居につなぐように鍵を掛けた。おそらく姉はナナエたちを追っ手に使うはずであり、だとすればこの青いランドナーは彼らが他の鳥たちから情報をたどる目印になるだろう。

(ここからは走りだ。)

 日向は素早く屈伸を行うと、両手を組み合わせて大きく背を伸ばした。
 そこから何の予備動作もなく、一歩目で二メートルほど跳んで、道路に戻る。それからスニーカーの靴紐を結び直し、後ろを振り向いてだれも来ていないのを確かめ、駆けだした。

 いつも自転車で十分かけている田園の道路を五分で走りきると、日向は林の中に身を隠し、息を整える。息が切れるほど本気で走るのは、一年ぶりだった。

(運動不足だな。)

 思いながらも、林の中を鹿のように駆け抜ける。 
 目の前が開けて、偶然、カラスを埋めた大樹の下にやってきていた。
 日向はそこで足を止め、夕焼けに黒い腕を広げる木を見上げた。戸惑ったのである。

(変かなあ。)

 こうして、求められてもいないのに助けに来たなんて言うのは。
 後先考えずに突っ走ってきたが、もし蜜柑にも学校にも何もなければ、自分は間抜けそのものではないだろうか。手に持った竹刀も、何をするつもりだったのかと聞かれれば失笑を免れ得ない。

(変な子だって思われるかなあ。)

 極端な行動を、気味悪がられはしないだろうか。日向ちゃんは、何をするか分からない子。日向ちゃんは、ちょっとおかしい子。

 "帰ってよ!" 

 蜜柑ちゃんでも、あんな。何かばれたのかもしれない。今ばれないんだとしても、これからばれるかもしれない。そしたら、そばにいてくれなくなるかもしれない。

(そうだ、だいたい。)

 もし蜜柑ちゃんが巻き込まれていたなら。
 わたしがそれを助けに行くっていうことは――

「……」

 日向は周りの気配を伺った後、木の根に竹刀を立てかけ、腰掛けた。背負っていた鞄から、古いオルゴールのような木箱を取り出す。木箱は、細かな房を垂らした青い布地で飾られていた。

 日向は蓋を開けた。
 中にはまず、白い、艶を帯びた水晶の様な材質でできた、輪が入っていた。

「なんだろ。腕輪かな…?」

 手のひらに収まってしまうサイズで、嵌めようとしても、手を通すことが出来なかった。何か、魔法の杖とか、呪文書の様なものを漠然と想像していた日向は、すこし落胆した。

 その腕輪の下に、二つ折りにされた和紙が敷かれていた。それを開くと、更に三つ折りにされた紙。

「なにこれ」

 時代劇の様にくるくるとそれを開くと、内側に収まっていたのは金箔で縁取られた厚紙――いわゆる短冊と呼ばれるものだった。ずいぶん古く、不思議な甘いにおいがする紙の上には、ミミズが這ったような字が記されている。

「よめない」

 草書というのだろうか。短冊である限りは、何かの和歌であるのかもしれなかったが、日向には解読のすべがない。と、短冊を包んでいた三つ折りの紙の方に、解答らしきものが現代仮名で清書してあった。

「きみをあわれと、…思ひ出でける?」

 読み上げた瞬間、左手で握っていた輪が白く発光した。

「何?」

 自ら切れ目を入れ、しゅるりとほどけて蛇のようになる。

「わ、キモ!」

 日向は放り出そうとするが、蛇は素早く手首に巻き付いて顎を開き、牙を血管に突き立てた。

「いたあ!」

 思わず立ち上がると、膝に乗せていた木箱が下に落ちた。蛇は尾を手首にまきつけて固定すると牙を抜き、今度は自分の尾を咥えた。頭と尾が水のように溶け合って、蛇はただの腕輪に戻る。

「うう…なんなのよ」

 涙目で手首の裏を見てみるが、嘘のように出血もなく、肌には傷一つついていなかった。落とした箱を探すと、オレンジ色の木漏れ日に照らされて、少し離れたところに転がっている。そして、そのすぐそばに、四角いピンク色の封筒があるのを見つけた。箱の一番底に敷かれていたのだろうか。
 日向は箱と封筒とを取り上げた。封筒には、

 受け継ぐものへ

 とあった。
 その筆跡を見た瞬間、それが母のものであると分かった。すぐに中を開き、二つ折りの便せんを取り出す。小さな筆運びで、どこか急いだように、でも強く克明に書かれていた。


  地獄は実在する。
  ほんとうだ。
  マッドサイエンティストは実在するし、殺人ロボットも実在する。
  悪魔の呪いは実在するし、血に飢えた殺人鬼も実在する。
 
  ひとつだけ実在しないものがある。
  それはひとつの、ただの言葉。
 
  それからずっとひとびとは、しあわせに暮らしましたとさ

  そういうひとつの時間。
  それは、ただのいちどもこの歴史にやって来たことが無い。
  ほんとうだ。ほんとうに。
  だけど私は言い続ける。この私だけは。
  神に見捨てられても、人に裏切られても、天と地のすべてが私から目を背けても。信じられるものが無ければ、私だっていきていけないのだ。
  そして私はいきていたい。
  信じられるものがある限り。


「かあさん…」

 母・しろは凡そ、深刻とか悲痛とか、そういう感情に縁の無い人柄だった。少なくとも家族の前では、そうふるまい続けた人だ。
 その母が、どんな気持ちでここに記したのか分からない。
 分からないがこれは確かに、いざと言う時の為に託したものだと信じられた。 
 日向は、左手首の腕輪を右手で包み込んだ。

 ――大事なのは、お前がどうしたいかってこと。

 わたしは。

(親友が困っていたら助けるって決めた。ノートにもそう書いた。それで、何かを失うことになったとしても。)

 たとえ、その人自身を人生から失うことになっても。

「行こう」

 日向はカラスの墓をもう一度見下ろし、走り出した。