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熾(おき)
熾(おき)
novelistID. 55931
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月のあなた 下(2/4)

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 一階部分の横から差し込んでくる黄色の光が、地球の絵の上面を照らしている。絵は相変わらず、地球とこちら側の間にある真空をも感じさせるような、不思議な透明感を湛えていた。ガラスの表面は薄いオレンジの膜の様になっているが、その向こうにある水の惑星は青く輝き、三百六十度の壮大な水平線と地平線とを感じさせ、今にも回り出しそうだった。

(ああ、本当に良い絵――。)

 蜜柑がぼうっとして見取れた時、不意に、地球の上に、コートを着た男が立っていた。
 
「?!」

 蜜柑は目を疑った。なぜなら、確かに一瞬前までは、そこに誰もいなかったからである。目をこすっても、男はそのままそこにいた。
 浅黒い肌の、ややパーマのかかった黒髪の男。外国人だろうか。
 男は右手を天に掲げると、何かを呟いた。
 その手のひらの中に、一瞬ダイアモンドの様な輝きが閃く。

「……」

 数秒は、なにも起こっていないように見えた。
 だがやがて、赤く輝く糸が――血液と同じ粘性を持って――つう、と目の前に垂れ下がって来たとき、蜜柑は異変に気づいた。
 何十本もの糸が、上の階からも、下の階からも、手すりからこぼれ落ちてまっすぐ中庭に注いでいた。それはまるで、細く赤い滝だった。
 ふと明るさを感じて下を見ると、同じ赤い糸が自分の足下まで伸びていた。見えない誰かが線を引いているようにまっすぐ床を走り、壁を上り、手すりを越えて、中庭へと落ちて行く。糸の元は、廊下に点々と転がっている濡れた砂の塊だった。
 円い中庭に降りた赤い滝は、そのまま中心へと流れ、充血している目のような模様を描く。男の足下に妖しく輝く赤い池が溜まる。男はその中に身を浸すようにかがみ込むと、ぶるりと震えた。その瞬間男の顔が、黄色い、とがった耳を持った狼のものにすげ代わる。

「え?」

 あまりのことに蜜柑が思わず声を漏らすと、狼はすっと顎を上へそらした。
 金色の双眸が、五階下から確かに自分を見ていた。蜜柑は咄嗟に頭を引っ込めると、手すりの影に体を屈めた。
 もう頭はクリアになっていた。心臓が強く脈打って、体の感覚が戻ってきている。だが、今見たものこそが一番、夢としか思えない。

(何なの? 何が起こってるの?)

「娘」

 頭の上から低い、濁った声が降ってきた。
 蜜柑は床を見つめたまま動かなかった。空耳だろうと思った。そうでなければこの声の主は、一階から五階までを一瞬で移動してきたことになる。

(ちょっと。そんなの冗談じゃないんだから。)

 いくら自分が妄想好きだからってこれはやり過ぎだ。夢を見てるときだって、夢だなってこころのどこかで分かってるじゃないか。こんなにリアルに感じられるまで、わたしおかしくなっちゃったの? 

「見えているのだろう」

 その言葉には、有無を言わせずに人を振り向かせる力があった。蜜柑が顔を上げると、鼻と鼻を突き合わせるような距離で、その金色の瞳が自分をのぞき込んでいた。

「――」

 美しい瞳だった。
 黄銅色の虹彩の縁と黒い瞳孔の間は、澄み切って何もない。時折ほんの微細な、ぽつ、ぽつとした点が砂のように散っていた。
 体温が、中に吸い込まれていく様に感じる。いま自分を氷のように包み込んでいる感覚は、おそらく恐怖。だが蜜柑は、恐怖の中に静寂と安らぎがあるのを知った。生き物は本当に逃れられ得ないと分かったとき、平静になる。捕食者に至近距離で睨まれたとき獲物は、その瞳の向こうに還って行く道を見る。

 狼男は手すりの上にしゃがみながら首を突き出してきているが、落ちる気配はない。

「深く眠っているが、素質はあるな」

「え?」

「今起きている学生はおまえだけだということだ」

 話しかけられたことで、一瞬蜜柑は自分を取り戻した。

「や、だれか――」 

 狼男は右手で少女の顎を掴み、左手で肩をつかむ。食い込むほど強い力に、蜜柑は呻いた。

「騒ぐな。なぜお前は声を出すのか」

 蜜柑が震えながら頷いてみせると、狼男は手を放し、視線をそらした。
 ほっと息をついた瞬間、腕が腹に絡められそのまま担ぎ上げられる。
 天井を見上げていた視界が反転し、一気に真下に五階下の中庭の風景が広がった。

「やあああああ!」

 すぐに狼は蜜柑の口をふさぐと、そのまま手すりから飛び降りた。
 急速に近づいてくる地球は、まるで大気圏に突入する宇宙船からの風景のようだった。