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熾(おき)
熾(おき)
novelistID. 55931
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月のあなた 下(2/4)

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群れからはぐれた羊と狼



 祇居が目を覚ました時、野球場からは熱という物が取り去られた様になっていた。

(ここは、どこだ。)

 景色としては此処五日見慣れてきたものの筈なのに、ひどく違和感がした。
 陽は傾き始め、グラウンドは薄い黄色に染まっている。
 日没まで、一時間前後というところだろうか。フェンスを越えた競技場周りにも、人気が無くなっている。まるで違う世界にあるもう一つの学園に、自分だけが放り込まれた様だった。
 爪先と膝だけで座っている体勢から、祇居は体を起こした。
左胸に鋭い痛みが走った。
 手を咄嗟に当てると、手のひらに生乾きの血がねっとりと着いた。

(内臓は傷ついていない。肉だけだ。)

 ――許したまえ。――

 コートの男の、鈍い金色の目を思い出す。

(純粋な狼の眼だ。)

 今や殆ど犬の血脈の中に埋もれてしまった美津穂の犬神ではない。

(外来種。)

 祇居は父や祖父、歴代の神主が遺したマレウドに関する文献を思い起こす。

『異能を揮うには他者の生命力が必要とされる。これを獲得するに際し最も穏健高度な方法は、土地に祀られる事により生命エネルギー循環の基盤に組み込まれること。最も過激簡便な方法は、他の生命体から直接吸い取る――例えば、生きたままの血肉を喰らう――事である』。

 いままで、そんな妖怪変化を見た事は無かった。
 ごく少数の例外を除いて、所謂ファンタジーだのモンスターだのと呼ばれる何かは、祇居に取っても紙の上の存在だった。
 いわば国際欄の記事のようなもの。
 在るのは理解できるが、実在の感触が無いもの。

(だが、あの虹色の矢。)

 あのエネルギー源は、文献における後者の方法によるしかない。

「――」

 祇居は立ち上がると、改めて周りを見渡した。
 目を凝らすと、野球場に、ところどころ不自然な土の盛り上がりがあるのが目に入った。そして、自分から数メートル離れた目の前にも、一つ。

 ――野球はいいぜ――

「!」

 Z字型に折れ曲がったイモムシの様な土砂の盛り上がりにむかって、祇居は駆け寄った。初めは恐る恐る、やがて急いで両手で砂を掻き払っていく。

「先輩!」

 中には尾上と呼ばれた青年が入っていた。たった少しの時間で、一回りも身体がやつれたように見える。頬も腕も、青く細くなって目は力なく閉じられている。祇居は咄嗟に胸に耳を当てた――わずかにまだ、脈打っていた。

「生きてる…」

 ほっと息を吐き、改めて尾上の顔を見ると、その半開きになった口から何か、赤く輝く糸の様なものが伸びているのが見えた。糸は、自ら虹色に煌めきながら、グラウンドの中に植物の根の様に潜りこんでいる。

「……なんだこれ?」

  *

 蜜柑は、所蔵室の中で膝を抱えて泣いていた。

(偶然、生き延びた。)

 だが、生き延びたからといってなんだというのだろうか。

 一瞬にしてすべては地獄に変わってしまった。
 もちろん、何が起こっているかなんて分からない。
 なんだか十年前のゾンビ映画みたいな現象が立て続けに目の前で起こっただけだ。そしてそんなことがあったにも関わらず、相変わらず停電したまま、校舎は沈黙に包まれ、警察がやってくる気配などかけらもないというだけだ。

(まあ、それだけで十分悪夢なんだけど。)

 蜜柑にとって最悪なのは、自分にはもうここから脱出する動機が残っていないということだった。
 映画のヒロインなら、ここで泣くのを止めて立ち上がり、突如冴え渡る頭脳とか観客が驚くような行動力や運動神経を発揮して、様々な偶然の助けも得て結局助かる、とでもなるのだろう。

「ハッ」

 蜜柑は思わず笑った。だが、すぐに涙があふれ出てくる。

 どこかで起こりえたことだった。
 その可能性をずっと無視していた。今があまりに楽しすぎて。 

“そんなやさしいセカイねえよばぁーか。”

 だよね。
 そんなに優しかったら、たのしかったら、地球じゃないよねここ。
 でも受け入れてくれる誰かがいて。
 また人の輪の中で笑い合うことができて。
 あんなことをされたわたしでも、人間として扱ってくれる人が――

(そうだ、吉田先生に言うんだ。三石さんがしたこと。)

 蜜柑はハッとした。だが、すぐに首を振る。

 “でもさー、今日ここでおこったこととか考えたらー、アンタとアタシの証言とか食い違っても、ほとんど意味なくない? だいたい証拠あんの?” 

 だよね。

 彼女が問題なのではないのだ。
 人間自体が問題なのだ。 
 たとえそれが骨を折る様な暴力を伴わなかったとしても。
 たとえそれが新聞に載るほどの悲惨な結果にならなかったとしても。
 不特定多数の人から虐待の対象にされた。
 それは、焼印の様にわたしにしみついている。
 この傷は、一生離れない。

 こんな経験したくなかったけど、自分を守れなかったんだから仕方ない。
 悪意に気付けなかったんだから。
 真っ白な人生には、戻れない。
 自分には、何の価値も無いんだ。
 みんながわたしをそう言う風にした。
 わたしは最低だけれど。
 それは、わたしのせいじゃない。
 わたしのせいじゃないと言った後に、ちらりと銀の腕時計を見てから、カウンセラーの先生は言った。

「…運が、わるかっただけ」

 そう呟いたとき、突如として、高い、何かの砕ける音が下から響いてきた。何十枚もの皿を一度に割ったような音。

「!」

 蜜柑は膝を抱えていた姿勢から、とっさに埋めていた顔を起こし、あたりを伺った。
 再び静寂が訪れていた。しばらくして、所蔵室の像や絵が気味悪くなってきた蜜柑は、ゆっくりとドアを開けた。

 図書館の一階に降りると、廊下に面した一枚のガラスが割れていた。それはバスなどでも見かける、『非常時脱出用』の特殊ガラスだった。

(そうだ。)

 これだけ大きな収容施設なら、出口は何個もなければならない。廊下の砕け散ったガラスの上に、図書館の椅子が倒れていた。

(先生…。)

 蜜柑は司書の事を思い出して、周囲を伺う。
だが、やはりすべてが死んだ様な静寂だけが、あたりを包んでいた。
 蜜柑は、ガラスのかけらを踏んで、本棟五階に出た。

  *

 すべて夕闇の紫に包まれつつあった。大きく弧を描く廊下の、手すりや壁の影に何か黒い砂の塊がこんもりと横たわっているようにも見えたが、無意識に無視した。
 蜜柑の頭は、あらゆる感情の奔流が荒れ狂った後の疲れで、芯のあたりからの麻痺していた。こんな時なのに、眠いような気がした。

 それでも、歩いて行く。
 何のために歩くのか、分からないけれど。
 ひなちゃん。ひなちゃんは、分かってくれるかな? 

(だめかな? どれだけ世界に期待したところで、それが自分に応えてくれることなんてないんだからだめかな?)

 ひなちゃんは、普通の幸せがほしいって言ってた。
 そして、それが似合う子だ。

(だったら、普通じゃないわたしが邪魔しちゃだめだよね。)

 くすりと鼻で笑って、蜜柑は手すりの側から中庭を見下ろした。