月のあなた 下(2/4)
がばっ、と顔を上げる。
「わ! きゃははは!」
それを予想していた自分は、手を叩いてわらった。
「こらー、まじめにきけー」
母は抱きしめて来、頭に頬ずりをした。
「…だいじな時にだけ、この引き出しを開けなさい」
胸の中から見上げてくる小さな娘に、まじめくさって言った。
「ねぇ、ほんとうにだいじなときって?」
母は、太陽のような笑顔で言った。
「いのちを、かけてもいいとき」
*
日向は手の中の鍵を暫く見つめていたが、
(急がなきゃ。)
ミシンが載せられている机の引き出しの鍵穴に差し込み、回した。
「ひーなー、飯出来たぞー」
「!」
心臓が突然高鳴り出した。
(兎に角、中のものを…。)
引き出しを開けると、蒼い蓋の、ティッシュ箱くらいの木箱が入っていた。
「おーい、二階―?」
とんとんとん、と姉が階段を上がって来る音が聞こえる。
日向は咄嗟に箱を上から掴むと、鞄の中に突っ込む。
穂乃華は妹の部屋をノックすると、返事を待たずにドアを開けて入った。
「ごはんだよ。ちょっと早いけど、食えるときに食っておこう」
「う、うん」
妹は勉強机の椅子から腰を浮かせた状態で、頷く。
穂乃華は顔を顰めた。つかつかと勢いよく歩み寄って来、片手を伸ばした。
瞬間日向は目をつむり、首を縮めた。
「もうあったかくなってきたから、夕方からは窓しめよ? 虫入って来る」
半開きになっていた窓を閉め、鍵まで掛ける。
妹が両手で隠しているノートをチラ見すると、あのノートだった。
(それでこの反応か。)
「今やってる問題が解けたら、降りてきな」
勘違いしたフリを見せて、部屋を出て行った。
階段を下りる途中で、なにかの違和感を感じたが、そのままキッチンのコンロの前に戻った。穂乃華は、味噌汁を椀によそいながら呟いた。
「やっぱりあの段、ぐらついてる…日向が転がり落ちて来た日だな」
汁椀を盆に載せ、食卓に並べようと振り返ったときだった。
制服姿で鞄と竹刀を背負い、スニーカーを履いた抜き足で、廊下を横切ろうとする妹と目が合った。
「え、ちょっと日向」
「ごめんなさい!」
「あんた、だ――」
走ろうとしたが、両手で持っていた味噌汁のお盆が咄嗟の迷いを生んだ。
その間に、妹は脱兎のごとく玄関を飛び出ている。
「いっちゃだめ」
味噌汁を盆ごと素早く食卓に置き、裸足のまま外に飛び出た時には、妹の自転車は夕暮れの中に飛び出していた。
風を切るが如き勢いで、直ぐに坂の下へと姿は消える。恐らく全力で漕いでいるのだろう。
(…しかも行先が分からない。)
相手の速さが分かっているだけに、僅かな出遅れが致命的と言えた。
「あんにゃろー…」
頭から湯気を立てている穂乃華の方へと、二羽の黒い鳥が舞い降り、近づいてくる。
「穂乃華お嬢様」
「あねさん、日向様はどうなされたんで」
「家出だ」
「ええっ、こんな時に。カラスの連中でさえ飛ぶのをやめてますぜ」
「だからあせってるんだろ! 早く探せ直ぐ探せ今探せ、三十分以内に位置を特定しろ一時間以内に連れ帰れじゃないと…」
「じゃ、じゃないと…?」
ごくりとナナエの喉が鳴る。
「あ、あんた、聞かない方が…」
「今日の夕食が揚げ物から焼き鳥に変更される」
「サー! イエッサー!」
「あんた、なにぼさっとしてんの、いくよ!」
二羽は先を争うように、オレンジ色に染まりつつある街へと向かって行った。
(…あの子、どうにかできるなんて思うなって云ったのに。)
穂乃華は無意識のうちに、首に掛けたネックレスの先にある指輪を弄っていた。
「!」
すぐに家の中に引き返して、二階に上がった。そして、迷わず母の部屋に入る。
「あのばか!」
目の前のありさまに、今度こそ穂乃華の頭が爆発し、髪の毛は逆立った。
開けっ放しの窓、はためくカーテン。ミシンの机に、空の引出し。
「一緒にだ、っつーの!」
作品名:月のあなた 下(2/4) 作家名:熾(おき)