10日間の恋
もうレジに向かう、という時、私が財布を捜す手前で、彼女はお菓子売り場から何かを持ってきてそっと投げ込む。
袋に入った、甘納豆だった。
好きなの?と聞いたら、悪い?と聞き返された。
顔は少し赤らんで、ぷいっと唇を尖らせている。
ううん、そうじゃないよ、と答えたら、好きなものにケチなんかつけないでよね、とまたまた言い返された。
可愛いとこあるじゃん、と思い、笑ってしまう。
甘い砂糖衣のついた甘納豆を、彼女はビールを飲み込みながらポイッとたまに口に放り込む。
BGMは、マライア・キャリー。
どこまでも広がっていくような果てしない声色に飲み込まれながら、私はビールを飲み込む。
聞き取れた言葉は、VISION OF LOVE。
VISION OF LOVE。
愛の、見え方とでも訳したらいいのかな。
私には今、愛はどのように見えてるんだろう。
結婚は、愛の延長に存在するんだろうか。
それよりも、結婚って、愛と関係するんだろうか。
「結婚って、愛と関係ある?」
彼女はその質問に、カリカリと甘納豆を噛み砕きながら、隣で顔を上げた。
長い髪の毛をワシワシワシっとかきながら、天井を見たり、窓から外を眺めたり、キョロキョロしながら数秒口を閉ざす。
そして何かにたどり着いたのか、ビールの缶をゆらゆらさせながら、私の目を見つめて、言った。
「関係ない」
「それ、結婚する私に対して言う言葉?」
笑ってしまった。
どうして?とか聞き返して、その質問の出所を探って無難な答えをくれる周りの人達と違って、私みたいに優柔不断なのとも違って、彼女は自分の意見だけを言ってくれたから。
かっこよく思えた。
素敵だと、思えた。
「関係ないんだ」
「結婚って、愛を諦めてからするものよ、私は実際そうだった」
コトン、と缶ビールがテーブルを鳴らす。
彼女が結婚してたという事実を、私は、今初めて知った。
私がすごい顔をしてたのだろうか、彼女は取り繕うように私の口にジャーキーを押し込んできた。
急に入ってきたジャーキーを前歯で押さえながら、私は目をパチパチさせた。
「隠してたわけじゃないわよ、大学の時の話だから…まあ、2年ともたなかったけど」
「相手は?」
「去年再婚したらしいわ、私とは似てない、全然違うタイプの女とね」
「くやしかった?」
「全然」
「愛は、なかった?」
「そうね、だけど今思えば、結婚するまでは、愛していたかもしれないわ」
何もかもがリアルに、身体から染み出るように、彼女は言葉を紡いでいく。
だから私も、リアルに、身体に染み入るように、彼女の言葉を吸い込んでいく。
彼女は泣くことなんかなかった。
そして、相手の悪口を言うことも、相手との想い出を語ることもなかった。
ただ静かに、カリカリと甘納豆の砂糖衣がくだけていく音だけがする。
「愛って、何かなあ?」
「そういう究極的な疑問は、アリストテレスとかそういう人に聞いてよ」
「何だか私たち、青春してるね?」
「ずいぶん遅い青春ですこと」
そう彼女はため息混じりに言い捨てて、もう一度カンパイをした。
カチャンというロマンのカケラもない缶ビール同士のキス。
同時に、カバンに入れてあった携帯電話が小さく震え始めた。
彼からの電話だろう。
だけど、いや、だから、私は、その電話を取らなかった。
2回ほど小さく震えてから、電話はおとなしくなった。
今日はたぶん、このまま彼女とこの部屋で酔いつぶれることだろう。
だから明日、彼はしつこく私の今日の出来事を聞いてくるはずだ。
そのときは、家で疲れて寝てた、とだけ笑って答えよう。
彼女とのことを邪魔されたくない、そうとだけ、思った。
結婚まで、あと7日に迫った。
寿退職までも、あと7日に迫った。
結婚式場の下見は慎重派の彼のせいで何度も行った。
ここでオレがおまえの手を引いて、おまえがここできっと泣くんだ。
そう言いながら、彼は気持ち悪いくらい何度も教会の中でシュミレートを繰り返す。
思えば、おっちょこちょいな私から見たら慎重派なところが好きだったはずなのに、そんな気持ちは不思議と消えてしまっていた。
彼とは4年付き合った。
合コンで、笑顔が素敵で、気配りがうまい人だっていうのが第一印象だった。
でもその第一印象さえも、少しずつ消えていた。
結婚は、一種のプレッシャーだった。
いろいろな周りからの要求にこたえなければいけない。
いい奥さんでいること。
いいお母さんになること。
いい旦那さんを作ること。
いい家族を守ること。
そのプレッシャーに耐え切れなくなったとき、人は『別れ』を考える。
彼の姿が見えなくなっていることに気づいたとき、私は初めて、迷いを感じた。
「結婚って、堕落なのよね」
「堕落?」
昼休憩、私は彼女と席を隣にお弁当箱を開けながら、そんな言葉を聞いた。
幸い、というか何というか、他には誰もオフィス内にはいないから、声を小さくする必要もない。
彼女は、コンビニで買ったらしいサンドウィッチのビニールを剥がしながら、また呟く。
「一緒にいすぎて、疲れるというか、新鮮さがなくなるのよね」
「あ、その気持ち、わかるかもしれない」
私はご飯を口に入れたまま、お行儀悪くもそう叫ぶ。
手放しでサンドウィッチをかじりながら、器用にペットボトルを空ける彼女は、さらに繰り返す。
「お互いを高める努力を忘れちゃうから、どこかで、相手を見失うのよね」
飲み物でサンドウィッチを流し込んで大きく飲み込む彼女を見つめる。
首筋にほくろを見つける。
私はそのほくろを見つめながら、続ける。
「だから、愛を諦めることになるの?」
「そう、だから人は諦めた愛を求めて、新しい誰かを探すのかもしれない」
新しい誰か。
その言葉をたまご焼きと一緒に飲み込みながら、はっと気づく。
何かに、そのとき、気がついた気がして、そっと箸を私は置いた。
「…って、来週結婚するあなたがそんなこと聞いてどうするのよ?」
彼女がそう言いながら私の肩をついた時、また、携帯が鳴った。
私は、テーブルの上で揺れる携帯電話を一番深い引き出しの奥へと放り込んだ。
「いいの、出なくて?」
「いいの、出なくて」
私は笑顔で彼女の言葉どおりを繰り返して、箸を持ち直した。
生まれてから死んでしまうまでに、動物は心臓を約10億回鼓動させるという。
もし、そのお話が本当だとしたら、私はすぐに軽く死んでしまうかもしれない。
今、ものすごい速さで動く心臓に手を置く私は、そう、思った。
結婚まであと5日。
伝わらない思いは、一生わかってはもらえないだろう。
10日間のいい思い出だと思って、全て、忘れよう。
結婚まであと3日。
こんな時だというのに、私は残業さえもらえなかった。
家には帰りたくないと思って、帰る同僚にお疲れ様を伝えていく。
早く帰れば、何かと母さんたちの涙ぐましい思い出話に付き合わされることがわかっていたから。
一方、彼女は休んでいた係長の補佐に回っていたせいなのか、若干の書類がまだデスクに残されていた。
「手伝おうか?」
「いいわよ、帰りなさい」