10日間の恋
この頃眠る前、目を閉じると、いろいろな29年間の想い出が、走馬灯のように頭の中を駆け巡るようになった。
幼稚園の頃、砂場で砂のお城を作って水を流して遊んだこと。
小学校の頃、かけっこで1番だったのにゴール前で見事にこけて、ビリになったこと。
中学校の頃、バレー部の最後の地区大会で優勝したこと。
高校の頃、友達と夜遊びして3時に帰り、父親に家に入れてもらえなかったこと。
大学の頃、二股をかけられていたことに気づかずに、バレンタインデーに徹夜してマフラーを彼氏に編んだこと。
そんな私に残された時間は、あと10日しかない。
と言っても、別に不治の病にかかったわけじゃないし、死神から死の宣告を受けたわけでもない。
ただ単に私は、10日後、結婚するのだ。
職場に行くまでの満員電車で揺られることを、少しだけ嬉しく思うようになった。
職場での『おはようございます』という言葉を、毎朝噛み締めるようになった。
休憩時間のお弁当箱を空ける瞬間を、もっと楽しく、そして、悲しく思うようになった。
日々毎日行われていて、たまにやめたくなるような仕事だったのに、今となっては、言葉に表せないほど、気持ちは複雑だったりする。
そして今日、土曜日。
休みが楽しみだったはずなのに、どうしてかふらりと、仕事着に着替えて、会社にやってきて、守衛さんを驚かせてしまった。
「仕事があるんです」
と言うと、守衛さんはさも今思い出したかのように大急ぎでオフィスのロックを外してくれた。
誰もいないオフィス。
パソコンを前にして、電源を入れて。
立ち上がったら、コーヒーを入れて。
コーヒーを自分のデスクに運んで香りを楽しみながら、マウスを操る。
そんなに毎日悠長に仕事していたわけじゃないのに、その工程の一つ一つをいとおしく思える。
ワープロのソフトを起動させ、『結婚』の文字を打ってみた。
けっこん。
結婚。
結ばれて交わる、という、すごく生々しい言葉。
考えてみると、気持ち悪い言葉のような気がするはずなのに、世の人は平気で結婚する。
自分もそうだと思っていた。
普通に結婚して、子供を作って、誰かの奥さんになって。
そして、子供が手を離れたら、夫とふたりで余生を暮らして。
それが当たり前のことで、それを行うことが、当たり前のような気持ちで出来る、と、そう思っていた。
だけど、決してそうじゃないんだな、と今になって思う。
冷め始めたコーヒーを口に含むと、その苦味が今の自分と重なる。
苦い。
今の自分の気持ちをあらわすと、一言で言えばそうなる。
苦くて、涙のようにしょっぱい。
これは、独身生活の終焉を迎えるのが悲しいのか、今からの大半の人生を考えると辛いのか。
辛いなら、結婚なんてしなければいいのにね、とまるで人ごとのように思いながら、私はコーヒーを飲み干した。
クルクルとイスで回ってみると、天井がマーブル模様に見えてくる。
溶けるようなその模様に従い、眠気がおとずれる。
私はいつの間にか、先の見えないナゾナゾに疲れたのか、眠ってしまっていた。
指先に最初に触れたのは、カーデガンだった。
目を最初に襲ったのは、強い夕陽の赤だった。
ブラインドの隙間から舞い込む夕陽は目を焦がし、私はガバッと起き上がった。
バサリ、と私にかけられていたらしいカーデガンが落ちる。
黒のカーデガン。
もちろん、私のものでは決してない。
「ああ、起きた?」
低音でぶっきらぼうな声がそばに流れる。
その声に振り向くように、窓へと向いていた顔を上げる。
女性。
パンツスーツに、ブラウスのラフな姿の女性。
ぼんやりとした目に映る湯気は、彼女の持つマグカップからあがっていた。
「飲む?」
と、そのマグカップを私が見つめていたように思ったのか、差し出された。
いいえ、と言うように首を横に降ると、すっと引き戻す。
行儀悪くデスクに腰掛け、マグカップを傾ける彼女は、たまにこちらを見てくるけど、あまり興味はないらしい。
だけど、このカーデガンはもしかしたら、彼女のものではないだろうか。
落ちたカーデガンを急いで拾い上げ手早く埃を落としてたたみ、彼女へと手渡す。
「よくわからないけど、ありがとう」
「よくわからないなら、ありがとうはいらないけど?」
つき返されるような答えに、私は当惑する。
彼女のことを、知らないわけではなかった。
ただ、話したことは、ないに等しかった。
付き合いの悪い人だ、という印象があった。
飲み会に誘っても断られるし、クッキー渡そうとしても断られる、という有様を同僚からよく愚痴られていたからだ。
そんな噂が私の中で勝手に処理されて、一生話すことのない人だ、と思いこんでいた。
今現在の状況も、付き合いの悪い人、という印象そのものだけど。
手に持ったままのこのカーデガンのあたたかさを思えば、そうでもないのかもしれない、と感じた。
「カーデガン、ありがとう」
「…はじめから、そう言えばいいのに」
彼女は呆れたような物言いの後、微笑む。
私は、その微笑にドキリとする。
なんだ、笑ってくれるんじゃない、と心の中で呟いた。
「今日は休みなのに、どうしたの?」
そう聞かれたから、私も負けじと落ち着いて言い返す。
イスに座り直し、少し私より背の高い彼女に、目線を向けた。
ブラインドの隙間から入る夕陽が、彼女の髪の隙間からきらりと光る。
「なんだか、急に仕事がしたくなって」
「ふうん、珍しい人ね。私なんてしたくもないのに休日出勤、気が滅入るわ」
と言いながら、彼女は面倒そうにパソコンのキーを乱暴に叩いていく。
左手にコーヒーを、右手にはキラリと光るブレスレット、三連の指輪が薬指を飾っていた。
私は、コーヒーメーカーにある熱々のコーヒーを自分のマグカップに注ぎながら、彼女の仕事振りを見つめていた。
「係長に不幸があって、たまった仕事が私に回ってきたってわけよ」
「係長、そんなことあったんだ」
「1週間近く拘束されるみたいよ、身内のだから…ああ、タバコ吸っても大丈夫?喫煙コーナー行くの、面倒で」
と言いながら、もうすでにライターの火をカシュッカシュッとつけ始めている始末だ。
ダメ、と言ったところでどうにもならないだろう。
だから、いいよ、と答えると、答える前にもうすでにタバコに火はついていた。
コーヒーとタバコ。
匂いの重なりを考えたら最悪の組み合わせだ。
「私にできることあったら、やるよ?」
「せっかくの休みでしょうに、本当に珍しい人ね」
タバコの煙をおいしそうに吸い込みながら、彼女は笑う。
壊れたスピーカーの如く、豪快に笑う。
だから、私も笑ってしまった。
悩んでいたナゾナゾも吹っ飛ぶくらい、彼女に負けないくらい、私は、豪快にゲラゲラ笑った。
結局、仕事は私が手伝ったことで、7時前には無事やり終えた。
秋先の7時の光は、もう薄暗く、電燈の光がまぶしく感じられる。
そんな中、会社のエントランスを出た私たちは、仕事明けのビールは最高だ、という意見の合致を迎えた。
コンビニに立ち寄って、缶ビールを数本とジャーキーやポテトチップなどをザカザカとカゴに放り投げていった。
幼稚園の頃、砂場で砂のお城を作って水を流して遊んだこと。
小学校の頃、かけっこで1番だったのにゴール前で見事にこけて、ビリになったこと。
中学校の頃、バレー部の最後の地区大会で優勝したこと。
高校の頃、友達と夜遊びして3時に帰り、父親に家に入れてもらえなかったこと。
大学の頃、二股をかけられていたことに気づかずに、バレンタインデーに徹夜してマフラーを彼氏に編んだこと。
そんな私に残された時間は、あと10日しかない。
と言っても、別に不治の病にかかったわけじゃないし、死神から死の宣告を受けたわけでもない。
ただ単に私は、10日後、結婚するのだ。
職場に行くまでの満員電車で揺られることを、少しだけ嬉しく思うようになった。
職場での『おはようございます』という言葉を、毎朝噛み締めるようになった。
休憩時間のお弁当箱を空ける瞬間を、もっと楽しく、そして、悲しく思うようになった。
日々毎日行われていて、たまにやめたくなるような仕事だったのに、今となっては、言葉に表せないほど、気持ちは複雑だったりする。
そして今日、土曜日。
休みが楽しみだったはずなのに、どうしてかふらりと、仕事着に着替えて、会社にやってきて、守衛さんを驚かせてしまった。
「仕事があるんです」
と言うと、守衛さんはさも今思い出したかのように大急ぎでオフィスのロックを外してくれた。
誰もいないオフィス。
パソコンを前にして、電源を入れて。
立ち上がったら、コーヒーを入れて。
コーヒーを自分のデスクに運んで香りを楽しみながら、マウスを操る。
そんなに毎日悠長に仕事していたわけじゃないのに、その工程の一つ一つをいとおしく思える。
ワープロのソフトを起動させ、『結婚』の文字を打ってみた。
けっこん。
結婚。
結ばれて交わる、という、すごく生々しい言葉。
考えてみると、気持ち悪い言葉のような気がするはずなのに、世の人は平気で結婚する。
自分もそうだと思っていた。
普通に結婚して、子供を作って、誰かの奥さんになって。
そして、子供が手を離れたら、夫とふたりで余生を暮らして。
それが当たり前のことで、それを行うことが、当たり前のような気持ちで出来る、と、そう思っていた。
だけど、決してそうじゃないんだな、と今になって思う。
冷め始めたコーヒーを口に含むと、その苦味が今の自分と重なる。
苦い。
今の自分の気持ちをあらわすと、一言で言えばそうなる。
苦くて、涙のようにしょっぱい。
これは、独身生活の終焉を迎えるのが悲しいのか、今からの大半の人生を考えると辛いのか。
辛いなら、結婚なんてしなければいいのにね、とまるで人ごとのように思いながら、私はコーヒーを飲み干した。
クルクルとイスで回ってみると、天井がマーブル模様に見えてくる。
溶けるようなその模様に従い、眠気がおとずれる。
私はいつの間にか、先の見えないナゾナゾに疲れたのか、眠ってしまっていた。
指先に最初に触れたのは、カーデガンだった。
目を最初に襲ったのは、強い夕陽の赤だった。
ブラインドの隙間から舞い込む夕陽は目を焦がし、私はガバッと起き上がった。
バサリ、と私にかけられていたらしいカーデガンが落ちる。
黒のカーデガン。
もちろん、私のものでは決してない。
「ああ、起きた?」
低音でぶっきらぼうな声がそばに流れる。
その声に振り向くように、窓へと向いていた顔を上げる。
女性。
パンツスーツに、ブラウスのラフな姿の女性。
ぼんやりとした目に映る湯気は、彼女の持つマグカップからあがっていた。
「飲む?」
と、そのマグカップを私が見つめていたように思ったのか、差し出された。
いいえ、と言うように首を横に降ると、すっと引き戻す。
行儀悪くデスクに腰掛け、マグカップを傾ける彼女は、たまにこちらを見てくるけど、あまり興味はないらしい。
だけど、このカーデガンはもしかしたら、彼女のものではないだろうか。
落ちたカーデガンを急いで拾い上げ手早く埃を落としてたたみ、彼女へと手渡す。
「よくわからないけど、ありがとう」
「よくわからないなら、ありがとうはいらないけど?」
つき返されるような答えに、私は当惑する。
彼女のことを、知らないわけではなかった。
ただ、話したことは、ないに等しかった。
付き合いの悪い人だ、という印象があった。
飲み会に誘っても断られるし、クッキー渡そうとしても断られる、という有様を同僚からよく愚痴られていたからだ。
そんな噂が私の中で勝手に処理されて、一生話すことのない人だ、と思いこんでいた。
今現在の状況も、付き合いの悪い人、という印象そのものだけど。
手に持ったままのこのカーデガンのあたたかさを思えば、そうでもないのかもしれない、と感じた。
「カーデガン、ありがとう」
「…はじめから、そう言えばいいのに」
彼女は呆れたような物言いの後、微笑む。
私は、その微笑にドキリとする。
なんだ、笑ってくれるんじゃない、と心の中で呟いた。
「今日は休みなのに、どうしたの?」
そう聞かれたから、私も負けじと落ち着いて言い返す。
イスに座り直し、少し私より背の高い彼女に、目線を向けた。
ブラインドの隙間から入る夕陽が、彼女の髪の隙間からきらりと光る。
「なんだか、急に仕事がしたくなって」
「ふうん、珍しい人ね。私なんてしたくもないのに休日出勤、気が滅入るわ」
と言いながら、彼女は面倒そうにパソコンのキーを乱暴に叩いていく。
左手にコーヒーを、右手にはキラリと光るブレスレット、三連の指輪が薬指を飾っていた。
私は、コーヒーメーカーにある熱々のコーヒーを自分のマグカップに注ぎながら、彼女の仕事振りを見つめていた。
「係長に不幸があって、たまった仕事が私に回ってきたってわけよ」
「係長、そんなことあったんだ」
「1週間近く拘束されるみたいよ、身内のだから…ああ、タバコ吸っても大丈夫?喫煙コーナー行くの、面倒で」
と言いながら、もうすでにライターの火をカシュッカシュッとつけ始めている始末だ。
ダメ、と言ったところでどうにもならないだろう。
だから、いいよ、と答えると、答える前にもうすでにタバコに火はついていた。
コーヒーとタバコ。
匂いの重なりを考えたら最悪の組み合わせだ。
「私にできることあったら、やるよ?」
「せっかくの休みでしょうに、本当に珍しい人ね」
タバコの煙をおいしそうに吸い込みながら、彼女は笑う。
壊れたスピーカーの如く、豪快に笑う。
だから、私も笑ってしまった。
悩んでいたナゾナゾも吹っ飛ぶくらい、彼女に負けないくらい、私は、豪快にゲラゲラ笑った。
結局、仕事は私が手伝ったことで、7時前には無事やり終えた。
秋先の7時の光は、もう薄暗く、電燈の光がまぶしく感じられる。
そんな中、会社のエントランスを出た私たちは、仕事明けのビールは最高だ、という意見の合致を迎えた。
コンビニに立ち寄って、缶ビールを数本とジャーキーやポテトチップなどをザカザカとカゴに放り投げていった。