恋愛の理由(後篇)
「死ぬことは許しませんから、絶対に、許しませんから」
私は、怒りと悲しみと彼女が生きていた嬉しさのないまぜな状態に困惑しながらも、なんとか、ほほ笑むことはできた、と思う。
櫻子さんは、ボロボロと涙をこぼしながら、私の体にしがみついていた。
「私が伊織のことが好きだったって、どうしてわかったの?」
「初めて会った時、どうしてか櫻子さん、彼女の名前最初に出したでしょう?それが、ずっと引っかかっていて」
「ああ、そんなこと言ってたのね、私」
櫻子さんは、何かをこぼすように、ぽろぽろと語る。
私は、それをただただ聞いていた。
肌寒い浴室から出て、私と櫻子さんは、今、櫻子さんの寝室にいる。
リビングでは、気絶した沢木さんがいびきを立てて眠っている。
どうやら、櫻子さんがいないため、仕事がだいぶ彼に傾いているらしいことからの寝不足もたたっていたようだった。
そんな彼に毛布をかけてやる櫻子さんの顔は、先輩のそれだった。
「伊織と、うまくいかないって思いだしたのは、もう、だいぶ前からだった。彼女、だんだん、小説が書けないって、言い出したのよね」
「それで、作詞なんかも?」
彼女に新しい包帯を左手に巻いてもらいながら、私は尋ねる。
思ったより傷は浅いため、病院に行く必要はなさそうだ。
彼女の寝室は、何というか、思っていたよりずっとずっと荒れていた。
しかも、それは彼女が心に傷を負っていたから、ではないように見える。
もっと言えば、それは彼女の寝室だけではなく、キッチンもリビングもドレッサーもベランダでさえも、荒れていた。
「本人にとっては新しい才能の開花って思っているようだったけれど、私は止めたわ」
「どうしてです?」
「彼女の小説の才能は、まだ開く可能性があったからよ」
そう呟くように言いながら、櫻子さんは、ゆっくりと目を閉じた。
目を閉じれば、きっとその才能あふれるシーンがたくさん浮かんでくるんだろうな、と思う。
しかし、どこかで気づいたかのように、ふっと彼女は現実へと帰ってきて、以前切りかけたらしい左手首をじっと見つめていた。
さっくりと切られて、血を噴き出したであろう左手首。
私はそれをいとおしく、ゆっくりとなでる。
「でも…」
「でも?」
「彼女、もう二度と書かないかもしれないわね。いえ、書くかもしれないけど、私が好きだった彼女の作品じゃ、ないわね」
櫻子さんは、そんな風にやわらかく言い捨てた。
彼女―高幡伊織の小説は、ライトな書き味ながら、どこか生々しく、そして、美しかった。
しかし、9巻を越えたあたりから、彼女の書き方はがらりと変わって、当たり障りなく、いかにも大衆受けしそうな文章へと変貌する。
その期間、二人の間に何があったのか。
私は多くを訊くつもりはなかった。
この櫻子さんの長い睫を濡らす涙を見つめていると、そんなことを訊きたいとは、到底思えなかった。
「真剣だったんですね」
「え?」
「死んでしまいたくなるくらい、その伊織さんって人のこと、好きだったんでしょう?」
私には、恋愛なんてわからない。
だから、死ぬことさえも考えるほど人のことを好きになった櫻子さんの言葉は、飲み込めない部分が多い。
死ぬことは、許されないからだ。
彼女の使命なんて、私が決められるものではないことは分かっている。
だけど、彼女に死ぬことは許されない。
彼女は、もっともっと、もっともっともっともっと、新しい小説家を発掘するべきで、新しい部下を育てるべきで、新しい作品を生み出さなければならない。
この腕も、この首も、この指先も、この体も、この命も、そのすべてを、そのために捧げつくしてほしいのだ。
だから、死ぬことは許されない。
「環ちゃん?」
「死ぬなんて、ダメです」
「環ちゃん…」
「死ぬなんて、許しません」
「うん…」
抱きしめた櫻子さんの体はあたたかく、そして、左胸に耳を付ければ、確かに動く緩やかな心臓の鼓動が聞こえていた。
トクトクトクトクという命の音は、今の私には重く、そして、この世の宝物のようにいとおしい。
いとおしいのだ。
この体も、この心臓も、この……。
いとおしい??
いとおしいって、どういうことだろうか。
「どうしたの?」
「……いえ、なんでも」
「あの日ね」
「あの日?」
「ほら、環ちゃんと初めて電話で話した日」
「ああ」
櫻子さんは、打って変わって、小さく微笑んでいた。
思い出し笑いでもしているのだろうか。
「あの日、伊織に週刊誌の記事が本当だって言われてね。もう、生きていたくないって本気で思った。39歳、最後の恋だって勝手に思っていたのね」
「はあ」
「いざ切ろうっていう時に、電話がかかってきて。とるかとらないか悩んじゃって、でも、どうしてかそれをとってしまった。電話の向こうには、見知らぬ女の子で間違い電話。あなたはそこですぐ切ってくれたらよかったのに、私と会話してくれた」
「はあ」
「あそこでもし、死なないでって言われたら、死んでいたわ。あなたに何がわかるのよって。なのに、あなたは、環ちゃんは、私にそんなこと言わなかった。それが、すごく効いたのね、電話を切ってすぐ、私何してたんだろうって…」
「その気持ち、しばらくは続いていたんですね」
生返事ばかり続けていた私が少し言葉を増やしたので、櫻子さんはちょっと驚いた顔をして、そして、そっぽを向いた。
「私だって、弱いところは、その、弱いのよ」
「ああそうですかそうですか」
生返事をスパッと言い捨てた私をまじまじと見つめて、櫻子さんは、肩をすくめ、天井を見上げる。
「……環ちゃん、結構きついわね、今日」
「誰のせいで怪我したんだか」
「ご、ごめんなさいって」
「それで、あのカラオケの日、伊織さんにまた何か?」
少し、私はいらいらしていた。
どうしてなのかは、不明だ。
「偶然街で会ってね。どうしてか、ほほ笑まれちゃった。まるで、今、幸せですからっていう雰囲気で。似合わないのに、シャネルのカバン持って、ディオールの時計なんてつけて。あの子、ブランドものなんて、興味すらなかったのにって、そう思うと、なんだか泣けて泣けて仕方がなくて、気づいたら会社に休職届を出してて、気づいたら、環ちゃんの大学に向かってた」
「そうだったんですか」
「あの日は、ごめんなさいね」
「何がですか?」
何の『ごめんなさい』なのかは、わかっていた。
しかし、私はとぼけた答えを返した。
「何がです?」
「怒ってないの?」
「怒る?」
「キス、したこと」
しばしの沈黙。
そのあと、私は、考えに考えた末の答えを引きずりだした。
「カウントしませんでしたから、問題ありません」
「そ、そう」
「そうです」
「じゃあ、今なら、カウントしてくれる?」
この返され方は、想定外だった。
櫻子さんは、間髪入れず、私の唇を奪い取ってくれた。
さっき私が殴った時に唇を切ったのか、しょっぱい血の味がにじむ。
「…しょっぱい」
「あら、環ちゃんが作った傷じゃない?」
「それはそうですが」
「……でも、なんだか私が軽い人間みたいだわ」