恋愛の理由(後篇)
どうしようもならないようなこの気持ちを押さえるように、私は、そのままの格好で街中へと出て行った。
とにかく、櫻子さんがいないこの小説を早く捨ててしまいたかった。
街中は、こんな私に出さえ、いつものように答えてくれる。
私が好きなのは、ただただ淡々と時を刻んでいくこのベンチとブランコしかないはずれのはずれにある公園だった。
近くのドトールでコーヒーをテイクアウトして、それを持って、ベンチに座り、空を見上げる。
真夏真っ盛りだけれど、もう空も茜色を越して紺色を帯び始めていて、その神秘的変化に私の頭の中身は洗われたようだった。
すきっ腹にコーヒーは最悪だろうけれど、香ばしい香りに心は満たされる。
だけど、木々越しに見える人の群れは、あまりにも雑然としすぎていて、先ほどの小説の中身のようで、また不愉快に戻る。
本は、ごみ箱へと投げ捨てた。
売ればお金になるだろうけれど、嫌いなものでお金を得ようと思うほど私は、心は醜くはなかった。
今頃、櫻子さんはどうしているんだろう。
お金がいっぱいあるのだから、もしかしたらハワイに行ってリフレッシュしているのかな。
いや、文学に命をかける彼女だから、芸術の都パリや、わびさびを感じるロシアにでも行って、現地の人間相手にも自分の文学論を展開しているのかもしれない。
むしろ、文学を持たない民族や宇宙人を相手にでも、彼女は自らの理論を教え主張して、そして、彼らの文学の誕生の一任を担えるような気がする。
うん、その方が彼女らしい。
彼女らしさは、そんなひたむきで、何事にも手を抜かず、本物を追求するところなのだから。
会いたいと思う。
会った時にはなんて言おうか、と考える。
思いつかない。
思いつかないから、悩む。
気が付いたらコーヒーはぬるく冷めていて、その重い味に我へと帰る。
不思議だった。
どうしてこんなことを考えるのかと、不思議だった。
自問自答はいくらでも続く。
ただ気がついたのは、櫻子さんの存在は、私の中でとても大きくなっていたということだった。
キスされたから、とかそんな物理的な原因からじゃなくて、私は、ずっと櫻子さんを素敵だと思っていて、そして今、会いたいと願っている。
もしかしたら。
もしかしたら、恋愛小説の主人公は、こんな気持ちなのだろうか。
もどかしくて、会いたくて、触れたくて、そして…。
自分で自分がわからなくなる。
だけど、これで、今まで書けなかった何かが書けるのかもしれない、とも思えた。
見上げると、時計が6時半を指している。
そろそろ、アパートに帰らないと、と立ち上がり、アパートまでの道を逆戻りする。
夏もそろそろ始まる準備をしているのか、寝床に帰り遅れたセミがビルの壁から飛び立つのが見える。
ファーストフード店、レストラン、居酒屋、カフェ…さまざまな建物が並んでいて、人々はひっきりなしに通りへと姿を現してくる。
そんな中、私は立ち止った。
それは大きな家電量販店の前で、そこには売り出し中の超大型ハイビジョン薄型テレビがお目見えしていた。
そこに映っていたのは、一人の女性と一人の男性で、いかにも女性は幸せをアピールしたいように、指輪を見せびらかせていた。
「彼女のどこがお好きなんですか?」
「そうですね、明るくてちょっと子供っぽいけれど、想像力があるところですかね」
そんな当たり障りのない言葉を吐く男の隣にいた幸せアピール女の名前は、高幡伊織。
相手の男は、背が高く、顔立ちも今時のハンサム顔での売れっ子ボーカリストだった。
指輪はダイヤ。
彼女のその細い指先で嫌味なぐらいギラギラと光っていた。
「高幡伊織さんは、この冬ドラマ化される大人気小説『怪盗ナンバー778』シリーズの作者であり、さらにお相手である仲崎道博(なかざきみちひろ)さんに数年前から作詞提供もされているスーパーウーマンです」
「このドラマの主題歌も仲崎さんに歌っていただくそうで、さらにドラマが楽しみになってきましたね~、実は、私もファンなんです、高幡作品の」
「高幡さんが作った最初の……」
コメンテーターの話を背景に映る高幡伊織は、思っていたような人物では、やはりなかった。
目立たない淡いピンク色の服に身を包み、男の隣で幸せをアピールしながら、ただ指輪を見せていた。
ごく普通のそのあたりにゴロゴロいそうな女性で、男性の手を取り、記者からの質問に答えていた。
仲良しの秘訣はよく話し合うこと、だなんて、いまどき誰が言うものか、と思っていたのに、そんなセリフをさらっと吐いていた。
「お二人の交際が発覚したのは、三か月前の週刊誌でのスクープでしたが…」
三か月前の、スクープ。
三か月前。
バラバラだった出来事が一つにつながった。
そう確信した私は、そのテレビの前でそのまま、電話で沢木さんを呼び出していた。
沢木さんと一緒に、櫻子さんのマンションへ急ぐ。
こういう時に限って、まるでドラマかマンガのようにエレベーターは故障していて、彼女のいる14階まで私たちは階段をのぼらなければならなくなった。
「あ、あのぉ~」
「なんです?」
「ほ、本当に、センパイいるんですかぁ?」
「さあ」
「ええ~!?」
私は息を切らしながらかなり遅れて階段をのぼってくる沢木さんを置き去りにして、櫻子さんの部屋へと駆け込んだ。
見事に鍵はしまっていたため、管理人さんに理由を話して手に入れてきた合鍵でドアを開く。
真っ暗な部屋の中、テレビだけがついていた。
大方、先ほど私が見た報道番組の次にある番組だろう。
かけっぱなしなまま、彼女は浴室にいた。
私が来たことにも気づいていない彼女は、ただ魂が抜かれた蝋人形のような真っ白な顔で、首すじに剃刀をあてている。
もちろん、安全剃刀なんかじゃなく、綺麗に光り輝くほど研がれた品物だった。
「…え…?」
櫻子さんの溜息のようにしか聞こえない言葉がこぼれる。
もうあと一瞬遅ければ、あたりは血しぶきで染まりきっていただろう。
「よかった、間に、あって」
私は、涙を浮かべることもとうに忘れ去った血色のない櫻子さんを見つめた。
気づいたら、左手にざっくりと剃刀が食い込んでいて、今まで経験したことのないような鋭い痛みが襲ってきた。
しかし、こぼれたのは、血しぶきの10分の1にも満たないような私の血である。
「はあ、はあ、麻生さん、センパイは……………」
ようやく辿り着いたらしい沢木さんは、私の左手から流れる血に驚いたのか、しばらく目を丸くして凝視した後、くらくらっとその場で倒れてしまった。
しょうがないな、と私は剃刀を手首から取り、その場に置いた。
櫻子さんは、私がその辺のタオルで左手を圧迫し、沢木さんを右手で引きずっている間、ずっとその剃刀を見つめていた。
「まだ、死にたいんですか?」
沢木さんをリビングの端に寝かせてから帰ってきた私の一言に、剃刀に手を伸ばしかけていた櫻子さんは、びくりと動きを止めた。
そして、櫻子さんに近づいた私は、残った右手でこぶしを固め、思い切り彼女の頬を殴っていた。
彼女は頬の痛みより前に殴られた自体に驚いたのか、数秒たってようやく涙を流す。