恋愛の理由(後篇)
だけど、それを悟っていないように装うのは、きっと、櫻子さん譲りの力の賜物だ。
「昔から文学少女で、文芸部に所属してずっと小説家目指してたらしいんですけど、もう高校時代で自分の才能の限界を感じて、編集の道へと転換したんだそうです」
「高校時代って、早いですね、限界感じるの」
「たぶん、いい作品と悪い作品をかぎ分ける力が強かったんでしょうね、だから今、バリバリの編集者になってるわけで」
「なるほど」
「山の沢出版創設時からのメンバーなんですけど、ずっと他部門への異動は辞退して、ヒラの小説部門の編集者をしている39歳ですよ」
「もうすぐ40なんだ」
「うちの小説部門が強いのは彼女のおかげと言っても過言じゃないですよ、どこからこんな作家連れてくるんだろうってぐらい、彼女が選んできた作家は有名に、というか、いい作品を書くんです。不思議ですよね、三沢孝子(みさわたかこ)とか、甲斐谷司(かいたにつかさ)とか」
沢木さんがあげていく小説家の名前は、どれも電車のつり革広告なんかで見たことのある人ばかりだった。
それを全部櫻子さんが作り上げたんだと思うと、偉大すぎて、今、何も書いていない自分が情けなく感じてしまう。
「飯島真琴(いいじままこと)に、あ、高幡伊織に…」
「高幡伊織?」
私は、瞬時に沢木さんに、『高幡伊織』という名前を聞き返していた。
これで、2回目である。
いや、違う。
香苗にこの名前を聞いたとき、私は明らかに何か、違和感を感じていた。
この名前を、知っていると感じていた。
―――――高幡伊織の、『怪盗ナンバー778』シリーズとか、知らない?
初めて櫻子さんと出会い、焼き鳥を囲んでビールを飲んだことを思い出す。
小説を読まないと言った私に対して、自分の会社の抱える売れっ子として櫻子さんが真っ先に出した名前が、高幡伊織だったのだ。
「あ、ご存知ですよね?」
沢木さんは、やっぱりとニュアンスを含めた物言いで、それ以上は口をつぐんだ。
大方、その高幡伊織さんとやらは売れっ子だから説明するまでもない、という意味だろう。
だけど私は、その高幡伊織さんとやらをどうしても知りたくなった。
あの櫻子さんが真っ先に小説家として名前を出したのは、高幡伊織だった。
甲斐谷司でも三沢孝子でも飯島真琴でもなく、高幡伊織だったのだ。
高幡伊織じゃなければ、ならなかったのだ。
彼女は、『本物の』小説を求めていた。
だから、そんな彼女が高幡伊織を口に出したのは、偶然ではない。
そんな崇高な思いを持つ人間は、偶然なんかを見せはしない。
「いえ、名前しか」
私は思ったよりも冷静に作り笑いを浮かべて言葉を返すことができた。
「冬から月9とまではいかないけど、ドラマ化が検討されていて、うちの会社では万々歳な出来事だったんですけどね」
「高幡さんは、櫻子さんに発掘された作家さんなんですよね?」
「ええ、僕が入るちょっと前ですから、4年くらい前かな。それまでは別の出版社から純文学出してたそうですけど、櫻子さんに方向転換を促されて、ライトノベルを書くようになったそうですよ」
確かに、タイトルからいってライトノベルだな、と今更納得する。
それはもちろん、私は小説を読まないからなのだけど、どうしてか、胸の中がもやもやした。
初めてだった。
小説を読みたいと思った。
それは、小説自身に対する興味ではなく、高幡伊織に対する興味だ。
櫻子さんが認めた作家は、どんな文章を書くのだろうか。
負けたくない。
そう、負けたくないのだ。
私は、次の日、生まれて初めて学校をさぼった。
授業をさぼっても、意外と学校へ行くこと自体は、小中高と通してさぼったこともない。
その点においては優等生で、ちなみに、風邪もめったにひかない皆勤賞ハンターな学生だった。
大学に行く時間、私は、ただひたすら小説を読んでいた。
生まれて初めて、いや、何度かは読書感想文のために読まされたけれど、読みたいと思って読む小説は生まれて初めてだった。
ただし、読みたいという気分は、小説に対するポジティブさではなく、作者に対する疑問が誘因となっている。
小説家を志す人間としては失格ね、という櫻子さんの呆れた声と同時に、その微笑みが思い出される。
ちょうど、私が読んでいた小説の一場面で、櫻子さんと同じような年の女性が主人公の少年に微笑みかける。
そして、彼の好物であるクロワッサンを投げ、バラバラと空中に欠片を舞わせながら飛んでくるそれを少年は、照れくさそうに受け取る。
ただそれだけのシーンだけど、とても生々しいというか、ぎゅっと何かこもっているような描写が行われている。
血液が通い、肉体があり、それを切ると血があふれだす、そんな本物の小説だと痛感せざるを得ない。
「さすが、櫻子さんです」
ぼんやりと私はつぶやいていた。
呆れからの一言ではなく、その衝撃からのぼんやり感のせいだった。
夕焼けこやけの音楽が、遠くにある小学校の拡声器から流れてきて、私は、ぼんやりと天井を見上げた。
気が付いたら、次の日の夕方になっていた。
二日も連続で学校をさぼり、よく考えたら、提出レポートの期限は、今日の朝だったことを思い出す。
眠ってないし、ほとんど物も食べていないことも思い出し、さらに、歯も昨日から磨いていないし、お風呂にも入っていないし、髪もばさばさだということも思い出す。
すべてをこんなに投げ出して読んだことは初めてだった。
しかし、達成感なんてものはない。
あるものは、漠然としたもやもやだった。
そのもやもやの結果として、私は、高幡伊織の小説、現在刊行されている全巻13巻分をもう一度見下ろし、そして、9巻以降を窓から外へと放り投げた。
外に人がいるかどうかも確かめなかった私は、その行動の後、大急ぎで、眠らないまま、物も食べないまま、歯も磨かないまま、お風呂にも入らないまま、髪もばさばさのまま、外へとそれらを回収に出た。
あるものは草陰へ、あるものはコンクリに突っ込んで背表紙を引き裂かれ、あるものは、水たまりに浸かっていた。
それらを一冊一冊、ほこりや砂、水を払い、すべてを集めながらも、私はそれらをいとおしくは感じなかった。
むしろ、このようにネガティブな気持ちをぶつけたほど、それらに対して嫌悪感を抱いていた。
この小説からは、何も感じなかった。
この9巻目以降の小説からは、何も感じなかったのだ。
血液が通い、肉体があり、それを切ると血があふれだす、そんな生々しい感情を感じることもなく、ただ小奇麗な表現が続いていた。
小奇麗で、誰にでも書けそうで、誰にでも真似できそうで、誰にでも好かれるかもしれないけれど、誰にでも捨てられそうな小説だと思った。
しかし、これらは全部、同じように棚に陳列されていて、『当店おすすめ商品』という、ご丁寧にもきれいで光るポップで飾られていた。
櫻子さんの仕事にしては、ひどすぎると感じた。
彼女のような本物の仕事をする人間が行ったにしては、雑然としていて、まとまってなくて、何より、何も感じないのだ。
香苗が好きだったのは、9巻以前の話だったはずだと信じたいくらいだった。