恋愛の理由(後篇)
「今までのって、よくも悪くも、文章の表現だけで勝負っていう雰囲気があったから。話の展開自体は、いつも優等生な雰囲気があったし」
「なるほど」
「でも、今回のは、こう、生の感情表現や展開が生まれてきたって気がした。それに、このマスターと主人公、いかにもどこかで繋がりあっている感じがするしね」
「どのへんが?」
「それは、書いた人間が無意識に作り上げてるものだから、一読者には、わからないよ」
「的確だね」
まるで櫻子さんが目の前にいるみたいだ、と思うくらい、辛口だけど最後は褒め称えて誤魔化してくれる香苗に、私はふにゃっと情けなく笑った気がする。
香苗は、食べかけの最後のサンドウィッチをほおばり、牛乳で流し込んでから、胸を張って答えてくれる。
「これでも、編集者目指してますから。あ、カンちゃんの担当してる人、前、学校前で見かけたけど、すごい美人だよね?」
「うん、ちょっと年はいってるけど」
「あのさ、カンちゃんのサインはもちろん欲しいんだけど、もう1人欲しい人がいるんだよね~」
多少食が進まない私は、香苗に遅れて、二つ目のロールパンサンドをかじりながら、バタバタとカバンを引っ掻き回す香苗を見ていた。
香苗が取り出したのは、一冊の文庫本だった。
タイトルは、『怪盗ナンバー778シリーズⅢ摩天楼で会いましょう』。
作者は、高幡伊織。
高幡、伊織。
どうしてだろうか。
私は、この名前を知っている。
「私、この作品の大ファンでさ、山の沢出版専属の作家さんだから、よかったら、その担当者さんにもらってもらえないかな~って」
「頼んではみるけど」
「やった!ありがとう、恩に着ます!…あ、ちゃんとカンちゃん、ここにサインしてね」
文庫本が勝手に私のカバンに押し込まれたかと思うと、今度はペンが飛び出して、私に香苗はサインを要求した。
表表紙のイラストの右上に、私は大きく、ごく普通の楷書体で『麻生環』と書いた。
今度は流れるようなサインをお願いね、と、香苗は、微笑んでいた。
「あ、帰ってきた!!」
アパートの階段をのぼっていたら、そんな大声が聞こえてきた。
かと思うと、廊下から人影が飛び出してきたので、私はこけるのを耐え、階段の手すりをがっちりとつかんでいた。
人影は、夕日を逆光で受けていたから、妙に大きな影を見せている。
だけど、その人影の『人』自体は、私よりも小柄だった。
小柄で、少しぽっちゃりとしていて、日に焼けていない白い肌は、きっちり着こなしたスーツやでしゃばらない髪型と合わせると、良家のお坊ちゃまを感じさせた。
「わぁ、本当に綺麗な方だぁ」
「私に、何か?」
「あ、申し遅れました、僕は…」
こういうものです、と両手で丁寧に手渡されたのは、名刺だった。
「山の沢出版……沢木(さわき)…」
「あ、それ、亜土夢(あとむ)って読むんです」
「変わったお名前ですね」
「ええ、両親共に漫画家でして、手塚先生の大ファンで…」
妹は兎に蘭と書いて"うらん"と言うんです、と彼はきいてもいないことをペラペラと喋る。
漫画家の両親だからお坊ちゃまな雰囲気があるんだ、と私は納得しながら、財布へと名刺をしまう。
沢木さん、という方は、ニコニコしていたかと思うと、ハッと気づいたように、体をこわばらせる。
「じゃない、ええと、今度朝日センパイから担当を変わったんです、僕」
「櫻子さんは?」
「それが……休職したいと言われまして」
「あんな仕事一筋な人が?」
「ええ、部長はともかく、他の重役まで驚いていたくらいです」
「と、とにかく、あがってください」
私は、大急ぎで玄関とリビングのゴチャゴチャした物を排除して、座布団を押入れから引っ張り出した。
お構いなく、と言う沢木さんに、冷蔵庫にかろうじて残っていたオレンジジュースを氷を目いっぱい入れたグラスに注いで出す。
私は、行儀悪いと思いながらも、2リットル入りのミネラルウォーターをガブ飲みしていた。
その様子は、狭い1Kの部屋だから、沢木さんにも丸見えだ。
「いやあ、なかなか豪快ですねえ」
「行儀悪くてすいません」
「いえいえ、全然。それで、あの後作品は?」
私は、返事を返さず、ただ視線をそらしてまたミネラルウォーターを流し込んでいた。
その様子を見て、沢木さんは何かを察したのか、自分もオレンジジュースを飲んでいた。
だいぶ待っていてくれていたのだろう、シャツにべっとりと汗が染みていた。
「沢木さんは、櫻子さんと付き合い長いんですか?」
「長くはないかな、僕が新入社員で入った時から3年、ずっとビシビシ鍛えられました」
「厳しい人ですもんね」
少し落ち着いて向かいの席に着くと、沢木さんはコクコクと強くうなづいてくれた。
「そりゃあもう。怒鳴られるし蹴られるし、殴られるし、あ、ひじ打ちも食らったっけなぁ…でも、本当は優しくて素敵な女性ですよ」
「ええ、わかります」
「かく在るべきっていう主張や理論を持ってる方だから、合わない人はとことん嫌いなみたいですけどね。あ、麻生先生のことは気に入ってるみたいですよ」
「その、先生っていうのやめてくださいよ。さん付けでいいですから」
照れるんで、と付け足すと、沢木さんはあっさりとそれを受け入れてくれた。
彼は饒舌で、やわらかでありながらも、櫻子さん譲りの辛口のトークセンスを持っていた。
皮肉も上手で、櫻子さんをマイナーチェンジさせたらこうなるんだろうな、という可能性を見せてくれた。
「でも、なんでいきなり休職なのかなぁ、僕、まだいろいろ教わりたいことあるのに」
「私も、まだ聞きたいことありましたし…あ、沢木さんじゃダメっていうわけじゃないんですけど」
「いえ、僕はまだまだですから」
すっかり日は落ちて、辺りは紺色に染まり始めていたけれど、不思議と私は沢木さんと話していたいと思った。
それはきっと、沢木さんも同じだろうと思う。
彼は、彼女を、櫻子さんを慕っているからだ。
そしてそれはきっと、私も、一緒なのだろう。
「櫻子さんって、どんな方なんですか?」
「どんなって、麻生さんの方がよくご存知じゃないですか?」
そう言われて、私は気づく。
いろいろなことを聞いていないと気づき、いろいろなことを言っていないと気づく。
会う時はいつも、小説のことについてしか語り合わなかった。
小説のことについてしか語り合わず、それだけで、楽しかったのだ。
だけど、彼女がいないこの場において彼女について、沢木さんは語れても、私は語れない。
私は、彼女の年も知らないし、生まれ故郷も、身長も体重も、好きな芸能人も、好きな作家も、知らない。
知っているのは、彼女は手首を切ろうとしたという事実だけで、その理由も、私は知らない。
知らない事だらけなのだ。
それを知ったとき、私は泣きそうになった。
どうしてなのかは、わからない。
「彼女、あまり、その、話して、くれないんで」
私は区切るように言い、涙をためているのがばれないようにそっと目を伏せた。
彼はきっと、私が泣いているのを知っている。