恋愛の理由(前篇)
だけど、領収書を『山の沢出版』で切ってしまったためか、半額を出しても受け取ってはくれなかった。
櫻子さんは平然と、私は釈然としない気分のまま、焼き鳥屋を出た。
「アマちゃんって言われて、ショックみたいね」
私が櫻子さんから3歩ほど後ろをのろのろとついていくだけだったからか、途中で櫻子さんは、大きく後ろを振り返った。
ちょうど、駅へと向かう道の大きなスクランブル交差点の信号に引っかかった時だった。
ここの信号は、一度赤になるとしばらくの間は車の往来のために足止めを食らわせてくれるのだ。
「そりゃ、まあ」
「少しは自信があった?だから、プロにはならないって言い切った?」
「そうかもしれません」
「書くことが好きな人間は、書かされることなんてないわ」
櫻子さんは言い切った。
「だって、こっちがその作品に酔いしれてしまうんですもの。だから、書かすなんてこと、できないわ」
『もちろん、一部の小説家にのみ許されることでしょうけど』とぺろっと下を出して櫻子さんは付け足す。
私は、パソコンの入っているカバンを今までで一番重く感じながら、信号が青に変わることを心待ちにしていた。
「その『一部の小説家』になろうとみんな頑張ってる。だから、あなたみたいに最初から人の力に作用されることを考えてる人間は、アマちゃん以外の何者でもない、本当は自信がないだけなのに、理由を後付して高飛車ぶってる…そうじゃないかしら?」
私は黙るしかなかった。
彼女は、さらに続ける。
「何よりも、自分が書くことが好きなら、小説家を目指すっていう選択肢、あるんじゃないかしら?」
「…いつも、そうやって新人作家の卵にけしかけてるんですか?」
「あら、けしかけているように思った?」
「ケンカを売ってこられているようにしか思えませんけどね」
「とにかく、あなたに足りないのは人に評価されることね、それも、目の肥えた信頼できるおえらいさんの」
そして、私のカバンは勝手に櫻子さんに探られた。
信号は青に変わったのに、私たちは前へは進めなかった。
焼き鳥のにおいが染み付いた原稿を奪い取り、彼女は足早に腕時計を見ながら、タクシーを拾う。
「これ、手直しできたら連絡するわ。新しい作品、期待してるから」
へらへらっと笑みを浮かべたかと思うと、やってきたタクシーにさっさと乗り込んで、彼女はいなくなってしまった。
あっという間の出来事に、呆然としていた私は、信号がまた赤に変わっていたことに気が付いた。
結局、『あの日の理由』について、教えてもらうことも、聞くこともなかった。
単に、私の心にぐさりと突き刺さる『アマちゃん』という言葉の刃物だけを残して、『あの日の刃物の理由』については何もわからなかった。
ズカズカと人の心に入り込んできて、荒らすだけ荒らして、あおるだけあおって、そして、最後は笑顔で終わる。
こうやって、彼女は新人作家を大量に発掘してきたのだとしたら、どれほどひどく暴力的で、そして、ずる賢いキツネみたいな人間なのだろう。
そう櫻子さんのことを頭の中で評価しながらも、私の中では新しい作品のための構想がメキメキとできあがってきていた。
彼女を納得させたい。
私を『アマちゃん』と言ったことを、後悔させてやりたい。
初めて、読者のことを考えた私がいたことに、私自身が、一番驚いていた。
正直な気持ち。
今までの自分は小説に対して没頭していたわけじゃなかったと思う。
好きだと言いながら、どこか気取って、『私だけにしかわからないもの』を追い求めていたんじゃないかと考える。
7杯目のコーヒーにミルクを入れながら、ラスト数行を残して、朝を迎えていた。
本気で書いていた。
睡眠を削って、趣味のためじゃなく、自分のために書いていた。
櫻子さんと会うのは、今日の正午過ぎ。
今、午前7時を回った。
納得させてやりたい、という気持ちはいつの間にか、すごい作品を書きたいという気持ちに変わった。
すごい作品ってどういうものだろう。
すごい作品って、人にどう思わせるものなんだろう。
抽象的過ぎる『すごい作品』の意味を頭の片隅で考えながら、手はタイプすることをやめない。
趣味が仕事になる。
もしかしたら、それは、最高のことなのではないだろうか。
正午過ぎ。
私は、電車をもう少しで乗り過ごすところだった。
大急ぎで半分しまりかかった扉に体を挟み込み、無理やり扉をこじ開けて『十日町』のホームへと飛び出した。
ドラキュラが昼間活動するかのように、妙に体がだるく、重々しい。
太陽の光に焼かれると、目の前が七色に光った。
「おーい、大丈夫かぁ?」
「櫻子さん…」
待ち合わせの喫茶店の扉を開けて一番にやってきたクーラーの冷気に、私は一瞬我を忘れて、目を閉じてしまった。
すぐそばのボックス席で紅茶をすすっていた櫻子さんが私の元に駆け寄ってくる。
目を開けた瞬間飛び込んできたのは、彼女の胸元のティファニーだった。
「どうやらがんばってくれたみたいねえ?」
「はあ、まあ…」
眠気覚ましにとはいえ、飲み飽きたコーヒーを飲む気にはなれず、オレンジジュースを頼む。
ついでに、櫻子さんがランチも2つ注文してくれた。
ここのランチはよく櫻子さんが食べに来るらしいが、値段よりもずっとおトクでおいしいらしい。
「で、書けたもの、見せていただきましょうか?」
「それよりも、前回預けたものを見たいんですけど」
「ああ、こっち?いいわよ」
返ってきた原稿からは、焼き鳥のにおいの他に、タバコや香水のにおいが染み付いていた。
赤色のペンで修正されている箇所が、一枚の原稿につき最低10箇所はある。
心がまた、抉られた気持ちになった。
「こうやって叩かれて大きくなるのよ、小説家って」
「覚悟してたんで、そこまでショックじゃありませんよ」
「それならよかったわ、直し甲斐があって。さてさて、見せて見せて~」
このときの顔だけは、子供に戻ったようにやっぱりキラキラしている。
ランランと目を輝かせて、おやつを待ってる子供みたいなものだ。
私は、プリントアウトしてクリップで束ねた原稿を櫻子さんに差し出した。
「今回は現代物?」
「なんで、って言われても困るんですけど」
「現代物だけど、ちょっとミステリー風味なのね。環ちゃん、ミステリー書いたことあるの?」
「これが初めてです」
「ミステリーは…そうだなぁ……」
黙られる。
一気に眠気に襲われるみたいに、目の前が真っ白になりかける。
そんな私を察することができたのか、櫻子さんは大急ぎで言いつむぐ。
「ミステリーが悪いんじゃなくて、環ちゃんの文章の問題なのよ」
「文章の問題?」
「ミステリー書くのに、この文章はもったいないわ」
「もったいない?」
「一番いいのは、恋愛小説だと思うけど…」
恋愛小説。
この世で、一番鳥肌が立つものの名前が櫻子さんの口から飛び出した。
まるで拒否反応起こるみたいに、私の背中が痒くなった気がする。
プレートに乗っかったおいしそうな料理の数々よりも、背中の痒さが気になって仕方ない。
「環ちゃんの文章って……あ、ちょっとごめんなさい」