恋愛の理由(前篇)
そういえば、ニュースもチェックしていたけど、とりあえず、神奈川や都内ではそういう事件は起こっていないらしい。
でも、彼女が地方の人間なら、もしくは海外に住む日本人だとしたら、私の住む地域のニュースには出ないだろう。
それに、ひっそり身内だけで事件を隠していることだって考えられる。
かけるかかけないか。
同じ選択肢が頭の中でグルグルと回っている。
もし彼女が生きていたらなんと言おうか。
生きていてくれてよかった、と言うのはおかしいだろう。
私は彼女と何も関係のない人間だ。
ただ、間違い電話をかけた、というだけの第3者に近い関係者にあたるだけなのだ。
しかし、自分がほんの少しでも関わった人間に死なれるというのは、やはり気持ちのいいものじゃない。
だからやっぱり、生きていてくれてよかった、というのが正しいのかもしれない。
いろいろな可能性を頭の中で巡らせながら、私は携帯電話を取ってみた。
リダイヤル機能を画面に映し、思い切って、彼女の番号を選び、決定ボタンを押す。
トゥルルルル、トゥルルルル。
5回目のコール音が鳴り響いた後、また、あの日のように切り替わる。
『はい、もしもし』
女の人の声だった。
あの人同じか、と言われると、自信がない。
彼女の声を覚えていないのではなく、この声に妙にハリがあったからだ。
「あの…」
『はい?』
「死んで、なかったんですね?」
しばらくの沈黙。
私は、もしかしたら蜂の巣を突付く様な真似をしてしまったのではないだろうか、と思った瞬間だった。
だが、それは杞憂だった。
電話の向こうの彼女は、いきなり大声で笑い出したのである。
『うんうん、死んでない死んでない、そっかぁ、あの時の電話の』
「はい、あの時の電話の」
『あなた、どこの人?』
「は?」
私は耳を疑った。
いきなり、居場所を聞かれるとは思わなかったからだ。
『私、神奈川だけど、あなたは?』
「神奈川、です」
『あら、奇遇ねえ?私、十日町だけど』
「…新小町です」
『すぐ隣じゃないの!じゃあ、明日、十日町の改札で待っててくれる?』
「どういうことです?」
またまた私は耳を疑った。
いつの間にか、話は待ち合わせ場所についてに摩り替わっているからだ。
『軽くお食事でもと思って。私仕事が7時に上がるから、7時半頃でいいかしら?』
「いいですけど…」
『じゃあ、決定ね。それじゃあ、おやすみなさい』
やられた。
私は思った。
完全に向こうのペースに乗せられたまま、電話は終わってしまったのだ。
ツーツーと電子音の鳴る携帯電話を握りしめたまま、私はただただ、驚きと焦りとで固まるしかなかった。
私の住む新小町と違って、電話の彼女の住む十日町は都会である。
そこらかしこに飲食店はあるしコンビニはあるし、カラオケはあるし、ちょっとしたバーもある。
だが、私の住む新小町はそこから電車ですぐだというのに、一歩踏み入れれば、田舎の雰囲気が漂っている。
住宅街というのが正しいのだろうか、ちょっとした商店街があり、とかく老人や子供が多い。
こんな都会に住んでいるのだから、なかなかリッチな女性だということが推測される。
きっと、ラグジュアリーで、グッチやディオールを身につけて、香水の匂いがするような人なのだろう。
電話の彼女像をふわふわと頭の中で描きながら、私は十日町の改札口でぼんやりと待っていた。
すぐ外にある噴水の水が細かく街灯に照らされて煌めくのを見ていると、ぽん、と私の肩に手が置かれた。
「電話の子よね?」
声の主は、自信満々であった。
私は目を丸くした、と思う。
何一つ、顔の特徴から着ている服から何から何まで知らないはずの彼女らしき女性が、今、私のそばに立っているのだから。
彼女は、ラグジュアリーな雰囲気ではあるけれど、グッチやディオールを身につけてはいるけれど、香水の匂いはするけれど、下品な女性ではなかった。
30代のバリバリのキャリアウーマン、というのが一番しっくり来る形容だろう。
戦闘服のようにスーツをかっちり着込んでいて、武器を持つかのように化粧もバッチリ決めている。
「どうして、わかったんですか?」
「声から想像したのよ。さ、行きましょう?何かリクエストはある?」
彼女に強引に腕を引かれたので、私はとっさにその手を振り払った。
彼女は目をぱちくりしていたが、その次にはふにゃ、と笑ってくれた。
「ごめんごめん。急ぎすぎたわね。いけないわ、どうも仕事のペースのまま、身体が動いちゃう」
そう言いながら、彼女はパンパンッと相撲力士のように、両手で頬を叩いた。
そして、気合を入れなおしたかのように、微笑みかけてきた。
戦闘が終わり武器を下ろした兵士のように、安らいだ笑顔だった。
「はじめまして、あの時は、ありがとう」
「お礼を言われても…」
「その理由は後々話すから。とにかくどこか入らない?夕方の日差しは肌に悪いのよ」
彼女は、ティーシャツからむき出しになっている私の二の腕をつつきながらそう言って、歩き始めた。
今度は、私の手を引っ張ることはなかった。
最初に彼女が入ろうとした店では、ボーイが私の姿を一目見るなり、丁重に帰るように促してきた。
彼女は1人、スーツで来なさいって言えばよかった、とぶちぶち呟きながら、食べたかったらしいフレンチを我慢することになった。
結局、私がボロボロのジーパンにシャツ姿で来たために、焼き鳥屋に入ることとなった。
と言っても、学生である私たちが飲み会に使うようなチェーンの焼き鳥屋じゃなくて、ちょっと通好みの人が寄る、高級な焼き鳥屋だった。
赤提灯が垂らしてあっても、その中から出てくるおじさんたちは、へべれけに酔いまくってはいなかった。
カウンターからほどよく離れた4人がけの席に座り、威勢はいいけど誠実なバイトじゃない女性が注文を取りに来た。
「お酒は?」
「まだ19ですから」
「じゃあ飲みなさいな」
私の答えに真っ向から対抗するように、彼女は生ビールのジョッキを2つ注文した。
カバンから出てきた髪留めで首元に汗を作る素である後ろ髪を上げながら、彼女は私をマジマジと見つめていた。
「19かぁ、若いわねえ」
「そりゃ、どうも」
「名前は?」
と聞かれて目が合った時、注文していた生ビールのジョッキと、つき出しのモツのポン酢和えがやってきた。
そして、大盛りの焼き鳥の盛り合わせが続く。
「さ、食べて食べて、はい、カンパーイ」
カンパーイ、と私は小さく呟いて、ジョッキをつき合わせた。
そして、軽くカチャンと鳴らすと、すぐにジョッキ半分を一気飲みし、ガツガツと焼き鳥を食べる彼女に私は圧倒されていた。
よっぽどお腹がすいていたのだろう、酢醤油に浸したキャベツをたまにかじりながら、ハツも皮もレバーも見境なしに食べ荒らす。
今私に名前を聞いたことさえ、忘れているかもしれない。
「……ああ、食べて食べて、ええと…」
「麻生です、麻生環(あそうたまき)」
「環ちゃん、ね。私は…」
脂とタレまみれの手をおしぼりでふき取ってから、彼女は名刺ケースを取り出す。