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恋愛の理由(前篇)

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ゴロゴロと縦に横に転がり、結局また、大の字になって天井を見上げる。
香苗に電話でもしようかな。
ふと、そんな考えが浮かんで、枕元に投げてあった携帯電話をとる。
意外と人と話したりすると、いいアイデアが浮かぶきっかけになったりするものだ。
『やっほー、元気?ちょっと話せる?』など、どうでもいい言葉をとりあえずメールとして打ち込んで、送信する。
5分待っても、返事はなかった。
彼氏とよろしくしてるのか、と思い、香苗に電話をするのは諦める。
今度は、文芸部のセンパイにでも、と携帯電話のアドレス帳をめくる。
真夜中の今でも起きていそうなセンパイにターゲットをしぼり、電話をかける。
1学年上の、書く作品にはいつも性格がキツそうな美女を数名出してくる、同じ工学部のセンパイである。
コール音が数回響き、数十回まで粘り、切り替わる。

「もしもーし」

とろけた眠そうなセンパイの声で『お~麻生か~?』と耳に入ってくると思ったのに、電話の向こうは、無言だった。
よっぽど疲れているらしい。
これはまいったな、と自分でも反省しながら、おずおずと尋ねてみた。

「坂木センパイ、今、大丈夫ですかぁ?」

返事はない。
向こうからは、ザーッという、テレビの砂嵐のような音だけが小さく響いている。
ああ、テレビをかけっぱなしにして寝てたんだな。
今はもう2時を過ぎている。
民法放送は放送を終了していてもいい時間である。

「すいません、起こしちゃいました?」

これでもまだ、返事はない。
完全に寝てたんだ、と本当に申し訳ない気分になってくる。
朦朧とした意識の中、鳴り響く携帯のボタンをつい押してしまったのだろう。
すいません、切りますね、と言おうとした時、ようやく言葉が返ってきた。

『間違えて、ますよ』

女の人の声だった。
呆れたような、落ち着いているような女の人の声だった。
おかしい。
このセンパイは、男のセンパイなのだ。
しかも、間違えてますよ、と言われた。
私は、この状況が飲み込めず、携帯電話を持ったまま、硬直していた。

『もしもし?』

「…あ、すいません。番号、間違えちゃったみたいです」

『そうみたいね』

「すいません、こんな夜分遅くに…寝ておられましたよね?」

『いえ』

調子よくペラペラ喋ってしまう。
人間というのは、焦ると喋るように出来ている。

『手首』

「手首?」

言葉をオウム返しする。
この場で出てきたその単語の意味が理解できないからだ。

『手首、切ろうとしてたから』

声は冷静だった。
だが、衝撃的な一言だった。
電話の向こうからは、ぴちょんぴちょんと水の落ちる音がする。
今、電話の彼女は、浴室もしくは流しや洗面台で、手にカミソリか刃物を持って、構えているということだろうか。

「はあ、手首を……」

妙に冷めている自分がいる。
冷静すぎるのは、おかしいだろうか。
とにかく、黙りこくるしかなかった。
自殺現場に電話してしまった。
しまった、と思った。
どういう意味で、しまった、なのかは、わからない。

「…すいません」

『どうして謝るの?』

「その、止めちゃったから」

『そうね、止まっちゃったわ』

怒っているのか呆れているのか、向こうの声は喉の奥だけで笑っている。

「すいません」

『いいのよ、またしたらいいだけだもの』

向こうの声は、喉の奥だけの笑いをたたえたまま、そう言い切った。
確かに、納得できる一言だ。
そう、またしたらいいのだ。

「そうですよね。じゃ、失礼します」

私は、丁重に、どうしてか部屋の中で1人、誰もいないのに頭を下げながら電話を切った。
そして、妙に疲れてふーっと大きく息を吐いて、キッチンで水をコップ3杯も飲み干した。
奇妙な間違い電話をしてしまったせいで、私はとんでもないことをしてしまったのではないだろうか。
彼女が死のうとしてたのを、私は止めてしまったのだ。
彼女の人生を私はまさしく、あの電話1本で変えてしまったのではないだろうか。
そう思うと、急に怖くなってきて、私は大急ぎでふとんをかぶり、部屋の電気を落とした。
あのぴちょんぴちょんという水音が、耳から離れなかった。










あれから1週間が経つ。
あの耳の奥にへばり付いた水音をどうにか2日で忘れ去り、私はまた1本小説を書き上げた。
今回は、中世ヨーロッパを舞台にした、騎士同士の友情を描くちょっと歴史小説に近いものとなった。
文芸部の仲間曰く、私が書くと、ボーイズラブになりそうなネタでも、まっとうな友情ものになるので、貴重だということだ。
褒められているのか、貶されているのかわからない。
その原稿を明日、部室に持ち込んで、そこで部長に最終確認をしてもらい、季刊誌作りへと持ち込まれるのだ。
徹夜をして一仕事を終えた私は、昼過ぎまで目覚ましもかけずに眠り、幼稚園児たちの騒ぎ声で目が覚めた。
残り物の冷ご飯をチャーハンへと生まれ変わらせて、遅めの昼御飯を取り、バサバサになっていた髪を切るため、美容院へと足を運んだ。
思っていた通り、毛先はバサバサで、もう少しシャンプーを丁寧にしてと軽くなじみの美容師に怒られ、髪を切られる。
シャンプーもされて、マッサージもされて、十分リラックスした私は、夕飯の買い物をしてアパートへと帰る。
レポートを仕上げて、夕飯を食べて、洗濯をしながらニュースを見て、お風呂に入って。
そして、またノートパソコンを広げる。
今度は、近未来都市作品なんかどうかな…とインターネットで、現代美術を検索する。
あのメタリックでモノクロで機械的なデザインは、イメージを膨らませてくれるのだ。
と、ここまでは、うまくいっていた。
だけど、ここまできて、また、あの水音が耳の奥のほうへ甦ってきたのだ。
ぴちょんぴちょん。
ぴちょんぴちょん。
耳の奥底で、あの音がエコーがかかったようにくぐもって響く。
私はノートパソコンの前から離れて、携帯電話を見つめた。
あの間違い電話の原因は、私の登録ミスだった。
坂木センパイの電話番号の下1桁を私が登録する時、打ち間違えたらしい。
坂木センパイにメールは頻繁にしても、電話をしたのは実はあの日が初めてで、それまで気づかなかったのも無理はなかった。

彼女は死んだのだろうか。

1つの疑問がわたしの頭の中に浮かんだ。
いや、ずっと浮かんでいたのを、忘れようとしていた、というのが正しい。
あの後、彼女は再び、風呂場もしくは流しや洗面台で、手にカミソリか刃物を持って、手首を引っ掻いたのだろうか。
手首に出来た裂け傷から血が吹き出したら、それをすぐさま、大量の水の中へと突っ込んだのだろうか。
傷口からは煙のように血が広がっていき、それと同時に、彼女の顔は血の気がなくなっていき、ずるりと身体を何かに預けることになったのだろうか。
そのように疑問に思えば思うほど、あの後の彼女が気になって仕方がないのである。
確かめる方法は1つだけである。
もう一度、あの間違った番号へと電話を今、することである。
そう、携帯電話は、すぐそばにある。

私は、携帯電話を見つめたまま、ただ座っていた。
かけるかかけないか。
彼女がすでに死んでいたら、電話には出ないだろう。
作品名:恋愛の理由(前篇) 作家名:奥谷紗耶