フィアンセになりたい
「あの、いったいどうして…じゃない、とにかく、あが、上がりますか?」
職業が弁護士だというのに、いつにもなく口が回らない私は、ドアを開けて彼女を招き入れる。
静枝さんは、くるくると廊下やリビングの光景を見まわしている。
私は、大急ぎで前に静枝さんが使っていたマグカップを出し、やかんで湯を沸かし始めた。
明らかに私自身が不自然だと自分でも確信できる。
「綺麗にしてるみたいね」
「え?あ、そ、そう…ですか?」
と答えながらも、静枝さんの視線の先には、投げっぱなしのシャツや、食べかけのポテトチップの袋がある。
私はソファの上のシャツを掴み、洗濯機の中に投げ込み、ポテトチップの袋をキッチンへと撤収した。
その姿を見ながら、静枝さんは笑いをこらえているように見えた。
静枝さんは、3年間経っても変わっていなかった。
しいて言えば、少し痩せたようにも見えるけれど、仕事が充実しているのか、健康そうな肌なのを見るとこちらが安心した。
「元気そうでよかったわ」
「静枝さんこそ、元気そうで…」
バタバタとコーヒーフィルターを探しながら、私は答える。
あまり家でコーヒーを飲まなくなっていた私は、フィルターが見つからなくてパニックに陥っていた。
「フィルターなら、その引き出しの右にあるわよ」
「あ…そ、そうでした」
目の前の引き出しの右側にたくさん見えていたフィルターを確認して、私ははあ、とため息をついた。
コーヒーフィルターをセットして、お湯が沸くのをただただ黙って待っていると、居づらい空気が私を包んでしまう。
何か話そうとするのだけれど、何も話せない。
ただただ時間だけが過ぎ、やかんから蒸気が上がりだしたとき、いきなり口火を切ったのは、静枝さんだった。
「真智に会ったの」
「真智って…」
「貴哉ちゃんが担当してくれたのよね、ありがとう」
唐突な『入谷真智』の話題に、私は余計挙動不審に陥る。
入れたのはいいものの、コーヒーの入ったマグカップを持つ手がおぼつかない。
「それは、真智さんが頑張ってくれたので」
「元気そうでよかったって喜ばれたわ。全部、あなたからお話、聞いたからって」
「すいません、話しちゃいました」
「ううん、いいの。なんだか、ほっとしたわ」
コーヒーをふうふうと冷ましながら、静枝さんはほほ笑んでいた。
静枝さんも、『けじめ』をつけたんだろうか。
その妙にすっきりした笑顔に、私は驚いていた。
「恨まれてると思ってたから、多少ケガするのは覚悟してたのにね」
「私もそうでした、真智さんに報復されてもしょうがないって思ってましたから」
「それで、真智から怒られたわ」
「え?」
「ごめんなさい」
静枝さんは、いきなり私の前で頭を下げた。
私には、何のことかわからない。
謝らなければならないのは、むしろ私の方だというのに。
「ちょっと、静枝さん?」
「私、気付いてたわ、あなたの…貴哉ちゃんの気持ち」
その一言に、私は口をつぐむ。
思い出したくない、思い出だ。
しかし、過去と決別するためには、この思い出を乗り越えなければならない。
それが、けじめというものだから。
「ごめんなさい、あの時は、あんなことを…」
「ずっとあの時よりもずっと前から、知ってたわ。でも、それに応えちゃいけないと思ってたの。だって、私、こんな年だし、それに…もっと、貴哉ちゃんにはいい人がいるって思ってたし…」
「そんなこと…」
「それに貴哉ちゃん、反則だわ…どんどん、貴子さんに似てくるんだもの…」
確かに、もともと顔立ちから何から何までのすべてを母親から私は綺麗に受け継いでいた。
たまに鏡を見ると、ふっと自分でも驚いてしまうこともある。
静枝さんも気がついていたのだ。
しかし、静枝さんは、母親に似ている私にさえも、恋愛対象としての愛情を与えてはくれなかった。
「…それでも私は、ママにはなれないから」
私の言葉に、静枝さんは首を横に振った。
「貴子さんと貴哉ちゃんを比べたことなんかない。比べたことなんかないけど…どんどん、私、あなたのこと…」
私は息を飲んだ。
静枝さんの口から紡ぎだされる言葉に、心臓の鼓動を感じた。
静枝さんは、ただただ、告白を続けていた。
淡々と、そして、いつもの静枝さんとは違うように、少々取り乱したように声を荒げながら。
「初めは、貴子さんそっくりになってきたって思ってた。でも、すぐに、貴哉ちゃん自身を好きになっていった。そんな自分が怖かったのよ、貴哉ちゃんに、貴子さんの身代わりだって思われるのが怖かった」
「そんな…」
「そう言ったら、真智に卑怯って言われたわ。そうよね、卑怯だわ。貴哉ちゃんに答えない、自分の気持ちを伝えない私は、卑怯で…」
「…嘘ですよね」
「嘘なんかついていないわ。あなたも貴子さんも、すぐに嘘って…」
私は、立ち上がり、静枝さんを抱きしめた。
静枝さんは、ゆっくりと私の背中に、肩に手を回し、力を込める。
この感触は、嘘じゃない。
嘘じゃない、嘘じゃない。
そう何度も確かめながら、静枝さんの胸に耳をあて、目を閉じる。
「嘘じゃ、ないんですね」
「そうよ、嘘じゃないわ」
「……ああ、もう死んでも構わないや」
「ダメよ、何を言ってるの?」
「…何かな、この会話、聞いたことある」
「貴子さんもそう言ってた」
そうやって笑う静枝さんを見ていると、私はつくづく自分が母親に似ていることに苦笑いを浮かべるしかなかった。
目元のほくろも、妙に伸びた身長も、顔立ちも、体つきも。
そして、好きになる女性のタイプも全く同じなのだから。
「でも、忘れないで、私は、貴子さんの子供だから貴哉ちゃんが好きなんじゃない。いつも私の眼をまっすぐ見つめてくれていた貴哉ちゃんが、好きになっただけだわ」
私の思っていたことを察してくれたのか、静枝さんが今、私が一番欲しかった言葉をプレゼントしてくれた。
夕焼けに照らされて、私も静枝さんの顔も赤く焼けたように染まっている。
どこからともなく、私は静枝さんの顎を引き寄せた。
そうっと、そうっと…何か美しい彫刻品を触るかのように静枝さんの顔に触れてみる。
そして、そのルージュが淡くひかれた唇に、自分の唇を重ねる。
あの時と違って、柔らかく、そして、少し震えているようにも思えた。
「…ごめんなさい」
今度は目を閉じていたものの、少しまだ手が震えている静枝さんに、私はとっさに謝った。
静枝さんは、少しそっぽを向いて、ぼそぼそと何かをしゃべっているが、上手く聞き取れない。
「その…」
「その?」
「…私、こんなおばちゃんだし…い、いいのかしらって…」
まるで思春期ど真ん中の高校生のように、静枝さんはもじもじと手をこまねき、私から離れようとする。
私はそんな彼女を離すまいとぎゅうっと力いっぱいに抱きしめる。
こんな表情を見せ隠しする姿を見られること自体に、喜びがあふれていた。
「いいの、そんな静枝さんが私は好きなんだから」
「それに……久し振り、だし、こういうの」
ああ、だから震えているんだ。
そう思うと、今度はおなかの底から笑いが止まらなくなっていた。
作品名:フィアンセになりたい 作家名:奥谷紗耶