フィアンセになりたい
私は、愛されたいと抗いながらも、愛してはいけないと自分を縛り続けた。
その縛りがバツンと切れた時、私のは、とんでもないことをしてしまった。
「た~っだいまぁ~」
「おかえり、貴哉ちゃん」
大学を卒業後、なんとか無事に司法試験にも合格した私は、無事に研修も終えて弁護士として新しいスタートを切っていた。
覚えなければならないことや、仕事上のイザコザに苦しみながらも、初めて自らに与えられた仕事を無事一段落させ、私は悠々と居酒屋から帰宅した。
たまにガツンとドアや壁に頭をぶつけてることがあったとはいえ、意識ははっきりとしていた。
暑くなってジャケットを脱ぎ捨て、私はソファに大胆に横になった。
仕事から帰ったばかりだったのか、まだ化粧も落とすことなく、静枝さんは冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを出していた。
「あら、思ったより早かったのね?」
「まあね~、ちょっとしたお祝いみたいなものだからぁ」
そう答える横で、静枝さんはゴクゴクと喉を鳴らしながらミネラルウォーターを飲み干していた。
私は立ち上がり、静枝さんの唇を奪い取る。
ゴトン、とフタの開いたままのボトルがフローリングに転がり落ちて足元を冷たく濡らしていく。
とっさとはいえ、目も閉じない静枝さんの唇の感触を私はしっかりと噛みしめるように楽しんでいた。
いや、楽しむような気持ちの前に、してしまった、という悪戯じみた気持ちと、そして、どうしてか罪悪感も訪れた。
しかしその罪悪感は、お酒のマジックのせいなのか、あっさりと消えていなくなった。
なんでこのような大胆な行動ができたのか、今でもわからない。
「…貴哉ちゃん」
力なく私の名前を呼ぶ静枝さんの耳元に頬を寄せて、私はその体を抱きしめていた。
ひんやりと冷たく気持ちいい。
「私も喉、乾いてて」
そう私が答えると、静枝さんはいつものように私の腕を引きはがそうとしたが、私は、離さなかった。
「はいはい。貴哉ちゃん、相当酔ってるわね?」
「そう、思いますか?」
「…思うわ」
その手に余計に力がこもるので、私はさらにきつく抱きしめ、さらに唇を重ねようとした。
ところが、その時初めて、静枝さんの両腕が、私の体を押し飛ばし、私は崩れた体制のままソファに寝そべるような形で落ち着いた。
初めての拒絶だった。
その事実に頭の中にカッと何か光が走り、私は少しおぼつかない足のまま、冷たく水たまりの出来たフローリングに立った。
「ひどいじゃないですか…」
「……ひどいのはどっち?」
私の質問に、静枝さんはそのままの言葉を私に返してきた。
静枝さんの声は、いつにもなく重く、低く響く。
怒っている。
小さな子供のように、私はその事実を体中で、空気を通して感じ取った。
「…気づいてるんでしょ?」
私は、自分を抱きかかえるようにソファの上で丸くなった。
静枝さんは、答えを返してはくれなかった。
「私が、ずっとずっとずっと静枝さんのこと…」
「貴哉ちゃん、ダメよ」
「ダメなんかじゃない、私の方が、ママより、ずっとずっと先に静枝さんと出会って、それで、もっと…」
「ごめんなさい、もう、寝るから」
そう言って、もう何一言も言うことなく、静枝さんは自らの寝室に入っていった。
私の言葉が聞き入れられたのか、そうじゃなかったのか。
それについてはわからない。
しかし、その次の日―あの冷たく朝から雨が降ったあの日、彼女は私を置いて家を出て行った。
『体に気を付けてね』
それが、彼女の導き出した答えなのだろう。
最後まで、私のことを子供としてしか見ていなかった、と主張せんばかりのこの言葉に、そして、もう使われない合鍵に、私は涙した。
私はそれ以来、静枝さんに会ってはいない。
12時を知らせる鐘が、どこかから鳴り響く。
もうこんな時間になっていたのだ、と私は現実に戻り、それに遅れること数秒で、入谷真智もこちらの世界へと帰ってきた。
入谷真智は、私と顔をあわせようとしなかった。
それはそうだろう、紛れもなく、私は彼女から母親を奪い去り、さらにその母親を手に入れようとしていたのだから。
しばらくの間、私と視線を合わせることなく、公園の至るところを眺めまわし、ぎゅっと一度目を閉じてから、私へと向き直った。
「…そうよね、ごめんなさいって謝って、謝りきれるものじゃ、な……」
「ねえ、貴哉先生」
私の言葉をさえぎって、入谷真智は、私の方へと身を乗り出してきた。
顔はどうしてか、笑顔だった。
まだ私を『貴哉先生』と呼んでくれるのが、不思議だった。
「まだ、先生って呼んでくれるの?」
「先生は、先生でしょ?それに、昔のことは、昔のことで、今のことは、今のこと。全部、それでいいんじゃない?」
入谷真智の微笑みは、静枝さんとそっくりだった。
心の中がゆっくりとほどけていく気がした。
彼女は、立ち上がり、ぐーっと伸びをしながら、天を仰ぐ。
そして、からっと晴れた晴天のような笑顔を見せた。
「でも、前の私だったら、先生のこと殴ってたと思うよ」
「え?」
「いろんなものが嫌だった。あの頃の自分も、そして、東京に来てからの自分も…だけど、もうけじめつけたから。あの頃に自分と、東京に来てからの自分に」
「けじめ?」
「北川殴った後、舞鶴に帰ったの。私、ずっと大嫌いだった、舞鶴のこと。でも、嫌いだからって背き続けるんじゃなくて、ちゃんと向き合えた時、舞鶴が、そして自分のことが好きになれたって、思うんだよね」
ていっと見事なフォームで投げられた空き缶は、数メートル先のごみ箱へと飛び込んだ。
にこっと彼女が私を振り返る。
「けじめ、か」
「先生も付けようよ、けじめ」
彼女に促されるようにして、私も同じように、慣れないフォームで空き缶を投げる。
少し彼女よりも鈍い音を立てて、ゴミ箱へとそれは吸い込まれる。
気持ちがすっとした気がする。
「…そうね」
けじめをつける。
私は、この彼女の言葉を何度も噛みしめていた。
思いがけない来客が現れたのは、彼女―入谷真智の判決が出た日から2週間が経った、滅多にない休日の夕暮れだった。
その日、私は昼過ぎまで眠りこけ、キッチンを汚したくなくて、あくび交じりに近所のファストフード店へと出かけた。
そして、ぼんやりとコーヒーとハンバーガーで時間をすごした後、どうしてか特に見たくもないのに推理小説とミステリー小説の文庫本を買い、マンションへと戻った。
推理小説の方はあっさりと犯人が分かったので途中で投げ、ミステリー小説の方を読みながら、もう一枚、と半分ほどになったポテトチップスに手を伸ばした時、ドアホンが鳴った。
いつもならば先にモニターで誰なのかを確認するのに、あまりにも気が抜けていたのか、そのことに気がついたのは、ドアノブをひねった時だった。
「はーい……」
「お久しぶり、貴哉ちゃん」
目の前にいたのは、静枝さんだった。
私は、静枝さんの姿を上から下まで確認し、そして次に、よれよれのジーパンと幾何学的な模様の入ったパンクなシャツを着ていたことに顔を赤くする。
作品名:フィアンセになりたい 作家名:奥谷紗耶