フィアンセになりたい
余命は数か月と言われていたのに、母親は、半年経った今でも、やせ細ったとはいえ、元気だった。
夏も過ぎ、秋も過ぎ、そろそろ冬に差し掛かるかなと言った時期、私は受験勉強の片手間に、母親に会いに来ていた。
静枝さんは、毎日母親に会いに来る。
舞鶴のご家族が捜しているのではないか、もしも私の前に現れたらどうしよう、などと考えていたのに、静枝さんは堂々と名前を名乗り、堂々と病院に現れた。
仕事はまだ探すつもりがないらしかったけれど、どうやら、母親を看取った後、この病院で看護婦として復帰するつもりになっているようだった。
私は、静枝さんに引き取られるようにして高校に通うことになるだろう。
店は、一番腕の良かった従業員の方へと譲渡することになり、その売却金で、大学までは何とかなりそうだった。
「貴哉ちゃんのお父さんって、どんな方だったの?」
面会時間ぎりぎりに病院を出て、近所のラーメン屋で夕食を取っていた時、不意に静枝さんに尋ねられた。
いきなりの質問に、私は、スープを運ぼうとしたレンゲを置いた。
「さあ、知らないんですよね」
「知らないの?」
「名前に、哉って名前がついた男の人だったってことしか知らなくて。で、ママの名前とくっつけて、貴哉なんだとか。でも、どうしてですか?」
「なんとなく訊いてみたくて」
「妬いてるんですか?」
その私の言葉に、静枝さんはかちっと固まった。
顔を赤くしているのは、ラーメンの湯気のせいじゃないだろう。
「妬いてるというか、その…」
「ママ、急に怖くなったんだって」
「怖くなった?」
「このまま、将来独りぼっちなんかイヤだってある時怖くなったって。で、何を思ったか、子供がいたら寂しくないっていう結論にたどりついて、適当なその、何とか哉って男の人と付き合って、子供ができたところで逃げたとか」
これは本当の話だった。
小学生の頃聞いた話だったけれど、当時はその意味が全くわからなかったように覚えている。
「…そう」
「でも、今は…静枝さんがいるから、きっとママ、寂しくないです」
そう言った瞬間、2人で顔を見合せもしないのに、黙ってしまった。
母親がもうすぐ死んでしまうということを、再確認したのと、同じだったのだから。
母親は、その年の12月半ば、静枝さんに手を握られて、すごくすごく安らかな顔をして天国へと旅立った。
葬儀は、簡単なものしか行わなかった。
静枝さんは、来る人来る人に不審な目で見られながらも、私の隣でずっと母親の棺につきっきりだった。
もう、舞鶴から東京へ彼女が戻ってきてから、7か月が経とうとしていた。
「静枝さん、今ならまだ、間に合うよ」
「え?」
葬儀も済み、部屋の隅に母親の位牌と写真を並べて静枝さんが手を合わせている時、私は喪服も脱がずにそう切り出した。
「帰った方がいいです、舞鶴に」
「何を言ってるの?」
「私は1人でも大丈夫です、高校も決まったし、バイトもするし…でも、静枝さんのご家族が」
「離婚届、送っておいたの」
「離婚届って…」
こちらに向き直って、静枝さんは微笑んでいた。
「たぶん、あの人のことだから、ちゃんと出してくれたと思うわ。私は、もう向こうには、何の未練もないのよ」
「嘘だ…」
「嘘じゃないわ。あなたのお母さんと過ごせたこの半年は、私の人生にとって、かけがえのない半年だった。その半年が暮らせたんだもの、何の未練もない」
静枝さんの瞳は澄み切っていて、あまりにも綺麗すぎて。
まだまだ子供だった私にはそんな人生観なんて理解ができはしなかったけれど、舞鶴に強制送還なんて出来るような状態ではないことだけは理解できた。
「それに、私、貴哉ちゃんのこと、貴子さんから頼まれているしね」
黙っている私に静枝さんはほほ笑み、エプロンをしながら、夕食にしましょう、と言った。
この日から、私と静枝さんの不思議な共同生活が始まった。
静枝さんは、予定通り看護婦として復帰し、名前も『入谷静枝』から『高山静枝』へと変えた。
いつもはお嬢様育ちな雰囲気でふんわりとした空気を身にまとっているけれど、看護婦の目をして働く女性モードの静枝さんはそうではなかった。
高校に通い始めてすぐ、私がアルバイト情報誌をテーブルの上に置いていると、静枝さんに部屋から呼び出された。
静枝さんは、怒っているような、そうじゃないような、だけどため息をつきながら、椅子を指をさした。
私は椅子に座り、そろそろと静枝さんの顔を覗いた。
「バイトしたいの?」
「その…ええと…」
「貴子さんが残してくれたお金もあるし、私のお給料、そんなに悪くないわ。だから、貴哉ちゃんにはしっかり高校生活を楽しんでほしい」
「でも…」
「もしかして、後ろめたいとか、そういうことを感じてる?」
私はその静枝さんの困ったような顔に、少し考えたのち、ゆっくりと頷いた。
「…そう」
「後ろめたいとかじゃないんですけど、なんだか悪いと思って」
「私は、貴哉ちゃんのこと、貴子さんに頼まれたとはいえ…本当の子供みたいに思ってるの。だから、私のこと困らせないで?」
そうとても真面目な顔をして、両肩を押さえられるようにして語られたものだから、私はただ、はいと答えるしかできなかった。
静枝さんはいつも言うのだ。
『貴子さんに頼まれている』『本当の子供みたいに思っている』と。
そう言われるたびに、私は思春期をとっくに終えようとしているのに、何かもやもやとしたモノが胸にたまっていることにイライラした。
静枝さんは、母親が入院していた総合病院の小児科に勤めていた。
不規則勤務とはいえ、母親がしていたように、夜勤のとき以外は、朝、必ず朝食・昼食と用意してくれて、私が登校するのを見送ってくれた。
休みの日には2人で買い物に出かけ、映画に出かけ、食事に出かけた。
たぶん、彼女の言っていることは本当のことなんだと思った。
静枝さんは、私と静枝さんの子供を重ね、親子をやり直したかったのだ。
執拗以上に私に目をかけ、私を愛してくれていた…母親として。
だけど、私は、そうじゃない。
私は、子供として見てもらいたいんじゃない。
私は、あの日―私と静枝さんが初めて出会ったあの時、彼女に一目ぼれしていたのだ。
静枝さんに恋愛の対象として見られたいのだ。
子供としてじゃなく、1人の女性として。
そう、私の母親のように、1人の女性として彼女の腕に抱かれたいのだ。
…せめて、母親の代わりでもいいから、毎晩寂しそうな顔をし、頬を濡らしている彼女の涙をぬぐってあげたいのだ。
私は、次第に彼女との距離の測り方を見失うようになった。
静枝さんが母親として接しているのを理解していながらも、私はその手を熱く力を込めて握った。
ただひたすら真っ直ぐに彼女の瞳を見つめるようにもなった。
そのたびに彼女は、そっと私の固く握った指先をほどき、別の話題を口にしながらゆっくりと身体を離していった。
特に、やめてと言葉をかけられることも、身体を突き飛ばされて拒絶されることもなかった。
だけど、受け入れるような素振りもなかった。
私たちの中では、ただの平行線が続いた。
作品名:フィアンセになりたい 作家名:奥谷紗耶