フィアンセになりたい
美容室の中から、倒れている私に気がついた従業員の人が電話を快く貸してくれて、その電話で119番した彼女は、何か電話で難しい言葉を話していたのを覚えている。
そのまま私は救急病院に搬送され、ストレッチャーに乗せられて運ばれていく間も、彼女は手を握っていてくれた。
あとから知ったことだけれど、静枝さんは看護師の免許を持っていたらしく、119番した時、私の病状などを細かく話してくれていたようだった。
結局、私は急性の虫垂炎で、着くなり検査にかけられてすぐ、手術へと踏み切ることとなった。
麻酔から覚めた私の前にいたのは、私の母親だった。
静枝さんはいなかった。
それはそうだと思う反面、ぼんやりとした薄明るい意識の中でさえ私は少し落胆したことを覚えている。
「ああ、よかった。よく頑張ったね、貴哉」
よっぽど急いで来たのか、ジーパンにシャツ姿で、お店のエプロンが隣のパイプ椅子にかけられている。
お好み焼きのソースの匂いが染みついた母親の手になでられながら、私はおずおずと尋ねる。
「…あの人は?」
「あの人って、ああ、入谷さんとかいう人?」
母親は、にこっと笑い、帰ったわよ、とだけ伝えてくれた。
私はその様子に、無理やりにも身体を起こしながら牙をむく。
「ちょっと、まだ起きちゃ…」
「…ママ、もう口説いちゃったの?」
牙は剥いてはみたが、術後、麻酔が覚めてすぐの、酸素マスクをしたままの姿では、迫力は足りない。
一方の母親は、ふんぞり返って、パイプ椅子に深く腰掛けて、眉を吊り上げていた。
「もう口説いちゃったって、人のことを見境ないように言わないでくれるかしら?」
「見境ないとは言ってないでしょう?」
「またお礼に伺いますって彼女の大体の住所訊いて、うちの店の名刺渡しといたぐらいよ」
「ほら、口説いてるじゃない!」
「く、口説いてないわよ、人妻に手、出すわけないでしょ?」
「十分出して…ったぁ…」
「入谷さん!ここは、集中治療室なんですよ、大声出していいわけないでしょう!!!」
私が術後の痛みに涙をこぼし、そして、母親は年配の看護婦さんに見事に一括されて、その場での親子喧嘩は終了した。
母親―矢野貴子(やのたかこ)は、とにかく子供の私が言うのも何だけれど、冗談じゃないほどの宝の持ち主だった。
年は、女盛りの35歳。
背は、今の私の身長よりもたぶん高かった。
年齢に比例せず、崩れることのないプロポーションと美貌。
艶やかな黒髪に、知的だけどゴージャスで小悪魔をイメージさせる目もとのほくろ。
私もどうしてその血を引いたのか、同じ位置に全く同じほくろがある。
仕事は、お好み焼き屋だけれど、夜7時、店が満席になると同時に、鉄板の前から離れ、ゴージャスなドレスをまとい、店の真ん中にあるピアノを弾く。
有名音大出身の留学経験ありの、ピアノコンクールをめった切りしていた過去を持つ、お好み焼き屋の美人女将であり、そして、男性にはもちろんだが、それ以上に女性にもてた。
母親の色気は、どうしてか男性よりも女性が感じ取ってしまうらしく、私の理解があることをいいことに、彼女は常にひっきりなしにいた。
母親は、自分に興味を持ってくれた女性を明るく堂々と口説いて、すぐに仲良くなってしまう天才だった。
だからなのか、何か大人の関係特有の生々しい匂いを私は感じることなく、すくすくと成長できたのだろう。
「あ、帰って来た」
「ただいま…あ…」
やっぱり、と私は、ランドセルを背負ったまま、口の中で呟いた。
店のカウンター席に、静枝さんがいた。
そして、母親は、ピアノを弾いていた。
お好み焼きの匂いが染みついたピアノを。
「元気そうでよかった、貴哉ちゃん」
「会いたかったんだよね、貴哉?」
ピアノの前で腕を組んで目配せをしてくる母親を尻目に、私はびくんと動きを止めてしまう。
ちらと振り向いた先にいた静枝さんは、やさしく微笑んでいた。
「え…そ、そりゃ、お礼、言いたかったから」
「お礼なんて」
「静枝さんのおかげだもの、この子が今元気なのは。何度言っても言い足りないくらいよ」
もう静枝さんと呼んでいるわが母親に呆れながらも、私は深く頭を下げた。
静枝さんは、『子供が頭なんて下げないで』と言い、
「本当に元気そうでよかったわ」
と目を細めてくれた。
母親は、ルンルンとお気に入りのピアノソナタを弾きながら、やさしくやさしく彼女に話しかけている。
私は、冷蔵庫から勝手にラムネのビンを出して、シンクの中でビー玉を押し込んで栓を抜いていた。
「看護婦ってかっこいいわよねえ」
「あの、私は、その…1年ぐらいしか働いてないですから」
「すぐ結婚しちゃったの?」
「ええ。主人、銀行マンなんですけど、私が働いていた病院で定期健診受けてたんです」
「それで知り合ったんだ」
「ええ、まあ」
私がラムネ一本を飲み終わる間に、2人の距離はぐんと縮まっていたように思えた。
母親のピアノには魔力があるのではないか、そう思わせるほど、うっとりとした瞳で、静枝さんは母親を見つめていた。
そして、おやつ代わりに、というように、母親は自慢のお好み焼きを小さめに焼いて静枝さんにプレゼントした。
小さな生地に豚肉に、エビとイカとホタテを目いっぱい詰め込んだ、原価割れ確実の特製のお好み焼きだった。
「うわぁ、豪華」
「お好み焼き、食べないの?」
「地元だと食べていましたけど、こんなに豪華なのは学生だから手が届きませんでした」
「地元って?」
「京都です、だいぶ田舎の方ですけれど」
そう言いながら、慣れた手つきでコテを使って崩れそうなお好み焼きを口に入れ、熱さに舌を出す静枝さんを、母親は腕を組んで見つめていた。
きっと何かある。
そんな風に、きっと恋愛ごとに不慣れな人でさえ確信が持てるほど、母親と静枝さんが纏っている空気は、柔らかな恋の色を帯びていた。
だから、私は小学生らしからぬ口調だったかもしれないけれど、静枝さんが来た10回目の夜、1人でテレビを見ながらビールを飲んでいた母親の隣に座り、尋ねた。
「ねえ、ママ、静枝さんのこと本気なんじゃない?」
なんと、その瞬間、母親は本当に押し黙った。
酔っているのかな、と思ったけれど、缶ビールはまだ冷たく、重い。
あまりに返事がない沈黙の時間が長すぎて、隣から母親の顔を覗き込む。
ビールを口元にあてたまま、母親の目線は遠くをただ捉えていた。
「私のこと、気にしなくていいんだよ?」
「気にせず、毎回口説いてるって言うの、あんたでしょうが」
「本当は、深い関係になる前にどの人とも関係終わらせてるの、知ってるもん」
母親は、これ以上踏み込むといけないという何かを察知して、すべて自分から口説いた女性であっても手を切っていた。
例えば、娘さんに会わせてとせがみ、娘さんの好みのお料理作ります、とか、部屋に連れて行って、など。
そのようなことをせがんでいた女性とは、その日で関係を終わらせていた。
だからこそ、私は心配していた。
心から全てを許しあえる関係の人間がいないのは、私のせいなのではないかと。
作品名:フィアンセになりたい 作家名:奥谷紗耶