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フィアンセになりたい

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私の担当することとなった女性、入谷真智は、彼女の娘だったのだ。
あの日、私が舞鶴から東京へと連れ戻した、入谷静枝(いりたにしずえ)は、彼女の母親だった。
私は、入谷真智から母親を奪い、入谷静枝から娘を奪った張本人である。
この事実を、判決が出た今となっても、入谷真智本人に告げることはできていない。
また、入谷静枝に対しても、同等に。

「本当に、ありがとうございました」

彼女―入谷真智は、東京地裁を出てからすぐに、深々と私に頭を下げていた。
判決は、懲役2年執行猶予3年。
彼女の様子から更生の余地が窺え、情状酌量の余地ありと認められ、さらに彼女は自分の同僚から仕事について虚偽の内容を知らされていたという証拠が認められたのだ。
もう1人の北川という男については、長い裁判の後、相当の罪状が認められるだろうが、彼女については検察もあまりしつこく付きまとってくることはないだろう。

「どういたしまして、と言いたいところだけど、あなたの頑張りのおかげよ」

彼女の書いた被害者家族への手紙は、一家族に対し便せん4枚以上。
その内容には一切自分の弁解を述べることがなく、家族に対する謝罪とこれからの自分の生き方についてが克明に描かれていた。
それを裁判の場で読み上げると、裁判官ですらうなづく様子で、彼女に対する心象が大きく上がったと言える。
判決の場で、裁判官は、大きな声で、

「これからのあなたの行動に期待します」

と述べ、彼女はうなづきながら大きく、『はい』と返していた。
結果はともかく、彼女は、困っている人を助けたいという一心から全ての行動を起こしていたのだ。
今度はその行動の方法を間違えないように、そんな意味がこもった言葉だったのだろう。

「仕事は決まった?」

「ええ、一応。だけど、勤めは来月からで、今月はとりあえず、一軒一軒、回ってみようかと思って」

「一軒一軒って、被害者のご家族?」

「北川に騙されてたとしても、そこに気付けない私が悪かったんですから」

「背負いこみ過ぎにも思えるけれど」

「そうですか?」

隣を歩く彼女はそう言いながらはにかむ。
彼女の顔は、静枝さんに似ていた。
最初に見た時から、彼女が誰かと似ているような気がすると心の中で引っかかっていたが、プラスチック越しでなく、このように間近で見ると、それがよくわかる。
静枝さんはどちらかというとお嬢様タイプの顔立ちで、おっとりとやわらかく上品だけれど、彼女はそこに幼さと溌剌さを足したようなぱっちりとした顔立ちに見える。
だけど芯は同じようだった。
全てを背負いこみ、そして、どこかでふっとつぶれてしまう。
つぶしたのは私だ。

「そういえば、今日、お友達は?」

「急用みたいです。彼女も仕事に命懸けですから」

「いい関係ね」

そう言うと、彼女はいかにもな照れ笑いを浮かべていた。
判決の日だというのに、唯一の家族であったはずの父親の姿はなかった。
彼女の実家である旅館に電話を一応入れては見たけれど、仲居さんたちの行為的な応対に比べ、彼女の父親の応対は冷徹そのものだった。

「あの人、冷たい人だから」

と、家で初めてお酒を飲んでいた時に呟いた静枝さんの姿が浮かんだ。
そういうことなのだろう。
この事件は、小さな小さな新聞記事にはなるけれど、大きく取り上げられはしなかった。
旅館の格も、そう傷つくことはないだろうから、余計無関心でいられたのだと思う。

「ねえ、少しそこの公園で座らない?」

私は、彼女を裁判所から200メートルほど離れた場所にあった小さな公園を指差し、そこへ行かないかと誘った。
まだ肌寒いながらもホクホクとした初春の陽気に誘われたのか、快く彼女は私の誘いを受け入れてくれた。
私は、近くの自動販売機でコーヒーなんかを買って、公園のベンチに座る。
10時過ぎの公園には、まだ子供たちの姿もないし、そもそも、この公園にはブランコしかなかった。

「東京って、季節感じられないって思ってたんですけど、そうでもないんですね」

『ほら、桜』と、彼女が指差した先には、ふっくりと膨らんだ薄ピンク色の桜のつぼみが枝に連なっていた。

「桜とか、ちゃんと見たこと、なかったなあ」

「忙しすぎた?」

「忙しいというより、自分が振り回されていた感じかな。いいことをしているって酔っていた自分に」

「そこに気がつけたのなら、もう大丈夫よ」

私の缶コーヒーは、もうすでにカラ同然になっていた。
一方の彼女は、まだ手を温めているだけの状態で、公園の隅々を見回している。

「あなたのお母さんのこと、知っているわ」

「え?」

ようやくとプルタブを開けようとしていた彼女に、私は切り出した。
缶コーヒーのカラの缶を握りしめながら。

「どういうこと?調べてたの?」

「ううん、彼女は……あの人は、3年前まで、私と一緒に暮らしていたから」

そこまで言いきって、残っていた缶コーヒーを私は一気に飲み干した。
彼女は、私の顔をじっとのぞき込み、数秒後、破顔して大声で、それこそ小さな公園いっぱいに響き渡り、桜のつぼみさえも落とさんとばかりの勢いで笑い始めた。

「そっか、そっかぁ、貴哉先生が、お母さんの恋人だったんだ。あれ、先生、いくつだっけ?」

「29よ」

「驚いたなあ、私と1つしか違わないなんて、ほとんど犯罪だって」

意外だった。
今までの彼女の態度から、平手打ちを浴びたり、『お母さんを返して!』とか、『最低!』などの罵倒は受けないだろうとは思っていたけれど、ここまで反応があっけらかんといたものだとは思っていなかった。
何が面白いのか、私の顔のパーツや胸元、耳、それら全てを見回すかのように、彼女は肘をついたまま私を覗き込んでいる。
その茶色く淡く色づいた瞳は静枝さんと瓜二つだった。
その目で見つめられ、眺められ、覗きこまれると、心臓の鼓動が早まるのを感じる。
私が独り占めしたかった瞳だった。

「先生、美人だもんね。お母さんも、すごい人見つけちゃったもんだ」

「違うわ」

「え?先生、美人だよ、本当に…」

「あなたのお母さん…静枝さんの好きだった人は、私の母だったのよ」

一瞬の間の後、入谷真智は、続けて、とだけ告げた。
私は、彼女の瞳に吸い込まれるかのように、すべてを話し始めた。









私は、今でも忘れない。
彼女は、私にとってあの時、本当に女神のように見えたのだ。
18年前。
道端で、痛みに耐えかねて、どこかの美容室前の花壇のレンガに手をかけたまま動けなくなっていた私に声をかけてくれたのが、彼女―入谷静枝だった。

「どうしたの?」

彼女は、その場に買い物袋を投げ出して、私の身体を抱きかかえてくれた。
痛みで目の前が朦朧としていて、立ち上がろうとしても力が入らない。
彼女はゆっくりと私を抱えて、そっと額に手をあててくれた。

「どこが痛いの?」

「お腹…痛い…下の方…」

「朝から痛かった?」

「学校から帰る途中、急に…気分も、悪い…」

「ちょっと待ってね、すぐ、救急車呼んであげるからね」
作品名:フィアンセになりたい 作家名:奥谷紗耶