君を待つ町
ごちゃごちゃと逆側にはトランペットやチューバなどの楽器が積み上げられている。
「そのまんま、か」
私は、ガラガラガラと窓を開けて、グランドを眺めた。
物寂しく、雪化粧をされたグランドを見ていると、不意に涙がこぼれてきた。
自分のしてしまったことに、嗚咽までもこぼれてくる。
大学在学時代から、素敵だと思っていた人がいた。
その人は、私よりも10歳ほど年上の男性だった。
好きというよりは、失ってしまった父親像を彼に重ねていただけなのかもしれない。
彼はどこか、もう時代遅れの学生運動をしているかのように理想と現実の間でもがきながらも、自分のすべきことを模索し、結論を出していた。
それに私も賛同し、そして、大学を卒業後、私は彼の事務所で働くようになっていた。
彼のやっていたことは、弱者の救済だった。
私と彼の仕事のおかげで、多くの人々が彼を称え、彼に感謝し、彼に涙していた。
私は気持ちが良かった。
自分のおかげで人が救われているのだと、彼の力はすごいのだと、彼を私は自慢できるのだと。
だけど、その彼の仮面が外れてしまった時、私は自分の仕事をひどく後悔することとなった。
ある日、朝早く事務所に行くと事務所宛にあて名のない手紙が届いていた。
不審に思った私はペーパーナイフをとり、その封筒を開けた。
入っていたのは、生命保険の契約書だった。
そこには、つい最近担当した中小工場の社長の名前が記載されており、生命保険の受取相手として、彼の名前が記されていた。
私はこの契約書を片手に、彼を問い詰めた。
そこで、彼の仮面が外れたのだ。
弱者を救うなどととんでもない、実際に仕事を手伝っていた私さえもをだまし、弱者を救うお返しに、弱者から大量の金銭をせびり取っていたのだから。
私は怒り狂った。
今までの自分に、彼を尊敬し、自慢していた自分に腹が立ち、そして、そばにあった置時計で彼を思い切り殴り付けた。
彼の大きな体はぐらりと揺れて倒れ、彼の頭からこぼれおちた血液がカーペットに地図を描くようににじんでいった。
息を切らして切らして、それを整えてから、私は自分のしたことの重大さに気がついた。
事務所の台所で手を洗いに洗いに洗い倒して、倒れた彼を目の当たりにしてからすぐ、その場を走り去った。
そのままハンドバッグ一つで駅へと向かい、震える手で切符を買って、そして…
…なぜか、一番帰ってきたくなかった場所へと、私は、帰ってきてしまったのだ。
何に期待をしていたのだろう。
彼女に、瞳子に会えるとでも、期待していたのだろうか。
借りに会えたとしても、もう、人の命を奪い去った血にまみれた私の手を取って、『家来ない?』なんて、言ってくれるはずもない。
ここを飛び出して10年。
手に入れたものは、裁判所経由刑務所行きの切符だけだった。
「あーあ…」
その瞬間、扉が開いた。
涙を目にためていた私は、ぐにゃりと歪んだ瞳のまま、扉の方へと目をやる。
つうと涙がこぼれおちたその先には、白いセーター姿のコートを右腕に持った誰かが立っていた。
生徒だろうか、それとも先生か。
大急ぎで涙を袖でぬぐい去り、振り向く。
「あれ、先客?」
どこかで聞いたようなセリフが、教室内に響く。
私は目を疑って、何度もごしごしとこすってから、もう一度振り返る。
彼女がいた。
10年たっても何も変わっていない、彼女が、いた。
「ピアノ、弾く?」
あの時のように、ぶっきらぼうに尋ねられる。
だけど今回は、あの時のように私に興味がなさそうにではなく、ちょっと照れて恥ずかしいような微笑みを含んでいた。
私は茫然としてしまって、目の前の自体が飲み込めず、あたふたと立ち上がりながら答えた。
「い、いえ、弾きませんけど」
「じゃ、借りるね」
彼女は若干以前よりは背が伸びて細身になっていた。
髪は、今流行っているような髪型じゃなくて、真っ黒な髪をおかっぱに切りそろえていて、いかにも"できる女性"に見えた。
ネイルも施されていない長い指から奏でられる旋律は、15年前よりもずっとずっと美しく、私はその音楽を噛みしめていた。
「いつ帰って来たの?」
「昨日、かな」
「久しぶり、元気だったの?」
「うん…元気、だっ、た」
「私ね、ようやく音楽でご飯食べていけそうなの。シンガーソングライターなんてカッコいい名前だけど、実際は何でも屋。年内は週に5回きっちり事務仕事」
相変わらず皮肉ぶった口ぶりで、曲を弾きながらもよくしゃべる。
その何もかも変っていない彼女に、私は自分のことでもないのに唇を震わせていた。
「あ…お、おじいちゃんは?清春さんには会えたけど」
「清春さん、相変わらずいい男だったでしょ?おじいちゃんはね、ちょうど先月、病院に緊急入院したの、もうたぶん、助からない」
トーンと黒鍵の音が鳴り響く。
その響きが消えないうちに、彼女の顔の中の悲しみだけは、消えていた。
「何となく嫌な予感はあったの。いきなり、私が引っ越した先のマンションにね、大きなグランドピアノが届けられたのよ。どこからそんなお金作ったのかって思ったら、あの家と土地全部売り払って、自分、老人ホームに入ったんだって。それで、ようやくピアノが買ってあげられたって。もっと早く売っていたらよかったなあって、そんな風に電話でね」
「あんな人でも、病院、行くんだね」
「ほんと、入谷さんって素直な感想言うなぁ」
へらへらっと笑うと、今ではとても幼い印象を受けるようになった彼女は、そう言うとピアノを弾く手をやめた。
何もない、音のない空間が訪れる。
「冷えてきたなぁ、やっぱり舞鶴は寒いなあ」
「そうだね」
2人でまるで停留所で隣り合わせになったばあちゃん2人のようなしょうもない会話を続ける。
今なら、ひらめが旬だね。
寒ブリもいい感じ。
ああ、私まだ食べてないなあ。
東京だと高いものね。
東京は水がおいしくない。
東京は、水以外も美味しくないよ。
野菜も美味しくないね。
そしてまた会話が途切れた時、私は喉のすぐそこまで飛び出していた言葉を、引っ張り出した。
「あの時は、ごめんね」
「あの時って?」
「急に、ここに来なくなったから」
「ああ」
ポケットからフリスクをぽいっと口の中に放り込みながら、彼女はけたけたと笑う。
そして私の手にフリスクをシャカシャカと振り入れながら、答えてくれる。
「1日だけ泣いたかな」
「泣いたの?」
「おじいちゃんや清春さんには、お父さんに行くなって言われたらしいって伝えたけど、そしたらおじいちゃん泣きだしちゃって、1日」
「瞳子は?」
「泣かなかったなぁ」
「泣く価値もなかった?」
私の皮肉ったような一言に、彼女はううんと小さく首を振った。
「私のこと考えたんでしょ?」
「違う、私、そんな人じゃ…」
「だから泣かなかった。ただ、いつか会いたいって、思ってた。それで、今日会えたのは、すごく嬉しい」
ああ、何もかもお見通しだったのだろうか。
彼女の笑顔には勝てない。
そして、彼女の思慮深さには、私は勝てない。