君を待つ町
彼女のおじいさんもなかなかのおしゃべりで、お酒もすすんだのか高らかな笑いが絶えなかった。
いつも1人か、おじいちゃんおばあちゃんとの3人の食事か、ひどい時は仲居さんと混ざって食べるばかりだったからだ。
わがままは言うことが出来なかった。
寂しいと言うことは、出来なかった。
彼女と、笠原瞳子といるのは、とても心地よかった。
あたたかい日差しの中にいるような、静かな森の中で森林浴をしているような、やわらかな何かにそっと包まれているような、そんな心地よさがあったのだ。
ただ毎日放課後、ずっと彼女のピアノを聴きながら、グランドを眺めていただけだったというのに。
次第に彼女の家に遊びに行くことも多くなり、構ってほしくて寂しそうにしているおじいさんの将棋の相手やお茶飲み相手まで務めるようになっていた。
彼女のおじいさんは、ボケ始めていたのかそうじゃないのかは不明だったけれど、私が羊羹を食べたりお茶を飲んでいる姿を見ては涙していた。
そしていつも言うのだ、瞳子の友達になってくれてありがとう、と。
自分がこのような仕事をしているせいで父親も母親もすぐに死んでしまい、友達もろくに出来たことがないし、おまけに今は貧乏だ、と。
そのように涙ぐむおじいさんにハンカチを差し出しながら、私はいつも優しく諭すのだった。
瞳子さんは、そんなこと思っていませんよ、おじいさんのこと、大好きですよ、と。
それはおじいさんに対するウソやお世辞などではない。
瞳子は、口ではへらへらと笑いながらおじいさんのことを時代遅れだとか言っているけれど、その目は何か大事なものを自慢するような色をたたえていたのだから。
私には今、自慢ができる誰か、がいなかった。
妻に逃げられ金の亡者となった父親と、そんな父親を強く言及できない気弱な祖父母、どこかで女性と暮らしているだろう母親、そして、何もできないひ弱な自分。
「ねえ、それ何の歌?」
「社会の水野の歌」
「ほんとだ、なんかそれっぽい」
「じゃ、次、体育の畑田の歌ね」
ぽろぽろんっと本物のピアノよりも甲高く、だけど澄み切ってはいない子供っぽい音が彼女の指からはじき出される。
彼女は寝ころんだまま、図書館から借りてきた本を読んでいる私の隣で、子供用の赤い玩具のピアノを弾いていた。
先ほどの『社会の水野の歌』よりもバカバカしいほど軽く、どこかで間が抜けたような音が入っている『体育の畑田の歌』を聴きながら、私はおなかを抱えて笑う。
「どう?」
「うんうん、最高」
彼女は即興で何かをパッと弾く能力にたけていた。
一度、彼女が作った小さな曲が書きとめられた楽譜ノートを見せてもらったことがある。
中身はちんぷんかんぷんだったけれど、とにかくその膨大な量に、『発砲して逃げる男の歌』とか『図書館での逢引』などとんでもないタイトルに目を奪われた。
だけど彼女は、その曲のすべてを学校のピアノとこの赤い玩具のピアノと、この彼女の頭の中身で作りだしていた。
彼女には、ピアノがなかった。
組が傾いて、本物のピアノを買えないと嘆きながら、おじいさんが買ってくれたらしいこの赤い玩具のピアノを彼女は大事にしていた。
おじいさんは今でも、お金の目処が立てばピアノを買ってやると語ってくれるそうだけれど、それをすべて彼女は断っていた。
「だって、私にはこれがあるから」
と彼女はその赤い玩具のピアノで作曲を続け、学校のピアノでクラッシックやジャズの曲を弾きながら笑ってた。
純粋に私は、彼女のことを尊敬し始めていた。
私の自慢は、彼女という友達と出会えたことだとさえ思うようになっていた。
彼女の家には、私専用の湯呑が置かれるようになり、清春さんの美味しい夕食を週に2回は食べるようになっていた。
私の生活は充実していた。
自慢の友人と、そのおじいさんと、清春さん、ピアノの放課後、心地よさ。
そのすべてを奪い去ったのは、母親の失踪だった。
母親の失踪は、私をひどく動揺させただけではなく、その半月後、私と彼女を妙な噂で取り囲む結果を生み出した。
ある朝、私が登校して教室に着くと、どうしてか教室内がしんと静まり返った。
おはようの一言に対し、いつもなら笑顔ですぐにおはようと返してくれる友達の反応は鈍く、顔をひきつらせながら後ずさっている。
先生がそれからすぐに教室に現れたからその時は、特に気にも留めなかった、その日以来、私に近づく人間が減っていることに私は気がついた。
その間でも、放課後、彼女の元へ行けば、彼女はいつもと何も変わらず接してくれ、新曲ができては披露してくれ、新しく弾けるようになったベートーベンのソナタを披露してくれた。
おじいさんと話せばどこかでまた涙ぐまれ、清春さんの料理は美味しく、いつも相変わらず男前だった。
そんなある日、私は仲の良かった友達数名に昼休憩、取り囲まれた。
彼女たちは何か言いたそうな顔を常にしていたが、それをついに口にするように切り出した。
「ねえ、真智も…そうなの?」
「そうなのって…何が?」
「真智のお母さん、女の人と出て行ったんでしょ?」
「え?」
「その…だから…」
私は、肝心な言葉を言いだせない未成年特有の彼女たちの無邪気さにぞっとしながらも、ようやくそこで気がついた。
ああ、だからこの頃、友達が話してくれなくなっていたのか、と。
女の子は近寄らなくなり、男の子は物珍しいと、好奇の目で私を見ていたのだ。
田舎というのは恐ろしいところで、一度その手の噂が回ると、払拭するのは難しそうだった。
友達には、根掘り葉掘り尋ねられることになった。
母親は頻繁に誰か女性と会っていたのか。
それは誰だったのか見たのか。
もしかして、笠原さんと私もそのような関係なのではないのか?
"別に、そういうのもいいと思うんだけどね"
"そういうのもダメじゃないって思うけど"
とお決まりきった言葉を語尾に何度も置きながら、彼女たちはたまに目を私から逸らしながら尋ねてきた。
私はそんな好奇心であふれ返っていた彼女たちに、笑顔で答えた。
そのすべてに、事実と虚実をミックスして、うまい具合に私の会話能力で薄めながら。
私は母親を恨んだ。
どうして女性と舞鶴を捨てて逃げてしまったのか、どうしてその姿を見られてしまったのか、残された私のことを考えてはくれなかったのか。
いろいろな思いが渦巻いて、私はあっさりと1つの行動へと結び付けた。
「入谷さん」
偶然、移動教室の際に彼女と鉢合わせすることになった。
彼女は、クラス内でもやはり孤立しているのか、提出物を両手に抱えて1人で職員室へと向かっている途中だった。
「この頃来ないね、どうかしたの?」
彼女は、きっと私に関する噂のすべてを知っていた。
知っていていた上で、私と前と同じように接してくれていた。
私は、彼女と見つめ合いながら、涙が出そうになっていた。
だけど、涙を流すわけにはいかなかった。
私は、隣で手をつないでいた男子生徒に目配せをして、凛とした、私なりには凛とした顔立ちで、彼女を嘲け笑うように言った。
「ごめん、彼とこの頃一緒に帰ってるの。勉強したり、買い物に行ったり」
「そうなんだ」
彼女の反応は淡泊だった。